改訂新版
『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々--アメリカ移民 ユーゴ・ルポルタージュ』
ルイス・アダミック著
田原 正三訳
THE NATIVE’S RETURN by Louis Adamic
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改訂新版
『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』--アメリカ移民 ユーゴ・ルポルタージュ--
第一部 帰りなん カルニオーラへ
一九年後
一九三二年の早春、一年間のヨーロッパ行きを認めるグッゲンハイム財団フェローシップを受けたとき、私は三三歳で、アメリカへ来てすでに一九年が経っていた。一四歳のとき、私はほんの形ばかりの「都会教育」を受けた農民の子として、カルニオーラからアメリカに移住していた。当事のカルニオーラは、オーストリア領スロヴェニアとして小さな州であったが、いまではもっと小さな、新興国ユーゴスラヴィアの州の一部になっている。
この一九年の歳月は、私をアメリカ人にした。よく私は自分のことを、知人の大部分のアメリカ生まれの人たちよりも、もっとアメリカ人らしいアメリカ人だと思っていた。私は熱狂的といっていいくらいに、ひたすらアメリカの光景に惹かれてきた。この国のさまざまな社会運動、思潮、個性に、また技術的な進歩や、社会、経済、政治的な問題に、さらにはこの新世界が繰り広げる凄まじいまでのドラマに関心を注ぎ続けてきた。
アメリカの国外で起こる事件や出来事については、通りいっぺんの関心を抱くだけで、それもアメリカに関係し、あるいは影響を与えるものに限ってのことだった。私は英語で読み、英語で書き、英語で話した。アメリカへ来て一六年間というもの、同胞の移民たちとの身近かな付き合いはなかった。残りの三年間は、アメリカ軍の兵士であった。世界大戦が終わってからは、アメリカ大陸の優に半分以上を彷徨い歩き、さらにハワイ、フィリピン、ラテンアメリカ各地にまで足を伸ばした。ここ数年前からは、アメリカの作家となり、アメリカの読者に対して、アメリカの問題について書いてきた。そして、アメリカ人女性と結婚した。
妻のステーラには、私の故郷での幼年時代について、ほんの二、三の事実しか話していなかった。それで両親のこと、村のこと、そして生まれた家などについては、彼女には想像すべくもなかったろう。彼女は私の話すことなど、何ひとつ信じようとしなかった。彼女からすれば、私は頭のてっぺんから足の爪先までアメリカ人だったのだ。
私たちがヨーロッパへ旅立とうとしていた四月初めのある日、ステーラはこう言った。
「もちろん、カルニオーラのふるさとにも行くわよね」
彼女はそうするのが当然と言わんばかりだった。
「もちろんさ、」と、私は答え、もう一度、「もちろん」と小さく繰り返してから、こうつけ加えた。
「ほんのちょっと立ち寄るだけだよ」
ステーラは言った。
「そうだわ、あなた、向こうに、カルニオーラ――なんて素敵な響きなんでしょう――に、家族がいるって話してたでしょ。いまはどうしてるんでしょうね、知りたいとは思わない?」
「そりゃ知りたいさ」と、私は言ったものの、正直なところ、そうした会話を続けるのがひどく億劫だった。
そんなことがあったけれど、私は故郷のわが家へ、スロヴェニア語が話せないアメリカ人の妻を連れて、できれば五月一五日の午後には帰りたいと手紙を書いた。私たちの乗船する船が、トリエステ港に一四日に到着予定になっていたので、何をおいてもまず帰郷しようという気になったのだ。それからすぐに、イタリアかオーストリアのどこか山間(あい)の村を見つけて、アメリカについての新しい本の執筆にとりかかりたかった。
2
三週間後、船が大西洋の半ばに差しかかったころ、私はステーラに言った。
「こんどの帰郷は、どうなることか不安だよ」
「やっぱり気になっていたのね。いったいどうしたの?」
「そうだなあ」と、私は説明をはじめた。「家を出たのは、ほんのつい昨日のように思えるけど、実際はずっと昔のことになってしまった。あのころのぼくはまだ少年だったし、そのときと比べて、だいぶ変わったと思うよ、根本的にね。ぼくの感情も知的な生活もすべて、アメリカに根ざしているように思えるんだ。ぼくはアメリカに住んでるしね。ともかく、故郷は一〇〇万マイルも離れた別な惑星にあるようなものだし、そこにぼくの家族は住んでいるんだから」
ステーラは、わかるわ、といった面持ちで聞いていた。
「もちろん、家を出る前の両親のことはおぼえているけれど、もういまでは二人の記憶もぼんやりしたものになっている。この一九年間というもの、ヨーロッパはあらゆる人たちにとって激動の時代であったし、それがいきなりぼくの心に押し入ってきたことで。親爺たちだって変わったさ。単に年をとったというだけでなく、性格だって変わったにちがいないよ。そのことが家族とぼくを疎遠なものにしたと思うんだ。
カルニオーラには四人の弟と五人の妹がいる。一九年前は、そのうち七人がすでに生まれていた。あとの二人はその後生まれた子で、名前はヨゼとアニカというんだが、もちろんぼくは会ったことがない。それにもう、二人とも一七と一五だ。上の七人は、ぼくがアメリカに行った一九一三年までには生まれていたから、かすかにおぼえている。ぼくは長男で一四、ぼくの上に三人いたけど、みんな死んでしまっていた。長女のトンチカが一三だった。次男のスタンは一〇歳。一番下の弟、フランツは一歳とちょっとだった。いま、あいつも二一くらいになってるだろう。トンチカは三二になり、結婚して二人の子もちだよ。もうひとりの妹ミミは、ぼくが家を出たときは四つだったけれど、もう二三になり、ある慈善施設で働いている。改名してマヌエラというらしい。なぜ尼さんなんかになったのか、ぼくにはわからない。それから弟のアンテ、妹のパウラとポルダカ、かろうじて名前だけしか記憶にない。思い出すだけでも一苦労なんだ。でもともかく、ここまできたからには行くよりほかにないね」
「ほんとに面白くなりそうだわ」と、ステーラが言った。
「まったく、どうなることやら」と、私は答えた。
「ここ一五年間というもの、家族との手紙のやりとりもだんだん少なくなっていた。アメリカが参戦して二年間は手紙を書けなかった。ぼくはアメリカ軍に入っていたし、おたがい敵どうしだったしね。戦争が終わって二、三年しても誰にも書く気にはなれなかった。ようやく書く気になったのは、ここ八、九年のことだよ。それも半年に一度、当方は元気でやっております、みなさんもお身体を大切に、といった程度の短い走り書きを送るだけだった。それ以上は書けないよ。第一、アメリカやぼく自身についてどう書けばいいっていうんだ。アメリカについて、ぼくが思ってること、なんて素晴らしく、もの凄いところだとか、ここほどぼくの心を惹きつけ、胸躍らせるところはほかにはない、といったようなこと書けると思う? そんなことを書いてやったら、向こうは勝手に解釈し、とんでもない誤解をするにきまっている。それにいちいち説明を書いて送るなんてことはできゃしないし、だから、ぼくは書かなかったんだ。――どんなふうにとられるかわかったものじゃないからね。結局、みんなはアメリカとぼく自身のことについて、まったくといっていいほど知らないのも同然だった。アメリカのことを知るには、長い間そこに暮らしてみなきゃわからないしね。もし、ぼくが下手なことを書いてやったら、弟や妹たちはアメリカに興味を持ち、そのうちの誰かがはるばるやって来たかもしれないし、ぼくはそれが嫌だったんだ。苦労はぼく一人で十分だからね。それに、アメリカで生活するよりも、カルニオーラのほうがある意味では暮らし向きはいいかもしれない。……もうひとつの理由は、最近になってようやく、母国語のスロヴェニア語でごく平凡な事がらを表現できるようになった、ということなんだ。それでもスロヴェニア語で、たとえば、アメリカでのぼくの生活の複雑なことについて、書くことはまだできなかった。
「もちろん、家の者は、ぼくがアメリカで耐えて生きているってことや、手紙をちっともよこさないことについて、理解できなかった。みんな、農民らしい辛抱強さと農民としての誇りでもって、わけのわからない手紙をよこした。でも、それはぼくの手紙とそうたいして変わらなかったよ。母や妹や弟たちは、いつもおきまりのように、お手紙ありがとう、私たちもみんな元気でやっております、といった内容だった。たまに、トンチカが結婚した、とか、スタンとアンテは入隊しなければならなくなった、とか、ミミは尼さんになった、といったことだけで、それ以上のものじゃなかった。
「だから、想像だってつかない。経済的に家族の暮らしがどうなっているのか、皆目見当もつかないんだ。ぼくが村を去って、アメリカへ渡ったころは、父は村でも裕福な農夫だった。でも、いま、アメリカの新聞を信じるかぎりでは、ヨーロッパ全土は悪い状況に向かって進んでいるっていうし、家族の者がどうなっているかわからないんだよ。だから君は、ぼくが〝アメリカ帰り〟だっていうことを心にとめておくんだね。みんな、アメリカから帰るっていうだけで、たくさんのお金を稼いで、家族の生計を助けてくれることになっているんだ。ぼくの手持ちのお金ときたら、すべてグッゲンハイム財団からの支給されたものだし、君とぼくが一年間ヨーロッパに滞在するにはぎりぎりなんだ!」
しかし、ステーラは楽観的だった。
「あなたが考えているほど、そんなに心配しなくていいかもよ。それより、みなさん、あなたが一九年間も離れて暮らしたことや、こんな女と結婚したことが心配じゃないかしら。そう考えれば、おたがい様じゃないの」
「そうかもしれないね」
私はそう答えるよりほかなかった。
3
私たちの乗った船は、リスボン、ジブラルタル、カンヌ、ナポリ、そしてシチリアのパレルモにと寄港した。カンヌを除く、それぞれの寄港地では、下船したとたん、「ギミー! ギミー!」と叫び、腹ペコだ、何か食べものをくれ、と身ぶり手ぶりで駆け寄る、ボロをまとった一群の少年たちに取り囲まれた。
通りでは、とくにリスボンでは、腕に赤ん坊を抱いた母親たちがそばに寄ってきて、子どもが飢え死にしそうだ、と沈痛な顔つきで訴えた。もちろん、彼女らのほとんどは物乞いを職とするプロであった。
「ユーゴスラヴィアではもっとひどくなっているかもしれない」と、私は呟いた。
五月一三日、船は、かつてはオーストリア領であり、いまではユーゴスラヴィアの一部となっているダルマチア沿岸にそって航海をはじめた。沿岸づたいにくり広げられていく小さな島々や燦燦と輝く小さな町々の光景を眺めているうち、なぜだかわからないが、次第に気分が楽になっていくのをおぼえた。たぶん、沿岸にそって並ぶ小高い山並みが、私がかつて数年のあいだ住んだことのある、南カリフォルニアのサンペドロからサンディエゴにいたる風景に似ていたからだと思う。また、陽光ふりそそぐアドリア海が、地中海よりもさらに青く、私にはいっそう美しく見えたからにちがいない。
船はゆっくりとドブロブニク、いや、ラグーザの港に近づいていくと、そこには信じられないような、素晴らしい光景が眼前に開けた。
「まるで劇場の舞台のようだわ」と、ステーラは感嘆した。
すると、隣にいたもう一人のアメリカ人女性が、甲板の手すりにもたれながら言った。
「いまにも役者の一団があらわれて、歌いだしそうね。♪俺たち、陽気な村人は……って」
そこでは三時間の停泊だった。ステーラと私は船を下りた。乞食の群れはいなかった。埠頭では何人かの少年たちがいた。リスボンやパレルモでのようにボロをまとってはいたが、飢えや病気に悩まされているようには見えなかった。彼らは、口をでっかく開けて、にやりと笑った。白い丈夫な歯が、日差しなかできらっと光った。肌は茶褐色で、ほつれた黒い髪が、青い瞳の前に垂れさがっていた。
少年の一人にステーラは金貨(コイン)を差し出した。少年はびっくりして睨みつけた。
「ザストゥ?(なんのつもりだ?)」
「いや、この女(ひと)は、きみに金貨(コイン)をあげたかったんだよ」
私は少年に、クロアチア語で説明した。驚いたことに、突然、なんの抵抗もなく口をついて出た。少年は顔をしかめ、そして、「ハバラ・リエパ!(ありがとう!)施しじゃないんだね」と言った。それからふっと、何かが頭に閃いたにちがいない。日焼けした幼い顔がかがやいた。
「もし、あんたと、このご婦人が親切で気前がよければ」と、にやりと笑い、「できたら、アメリカのタバコをいただけないか、一服ためしにやってみたいんだ」と言った。
少年は数本のタバコを手にすると、目と口をいっぱいに開いて、何ともいえない笑顔のなかにくずれた。「ハバラ・リエパ!」と叫び、走り去る少年のあとを、他の少年たちがキャーキャー叫びながら追っていった。
私は晴ればれとした気分に浸った。
「わが祖国よ!」私は心の中で呟いた。
「施しじゃないんだね、だって」
私は、わんぱく坊主のあとを追い、思いきり抱きしめてやりたかった。
「わが祖国よ!」私は声高らかに言った。
ステーラは笑っていた。二人して笑った。
私たちは、日が燦燦とあふれ、日影の濃い、ドゥブロブニクの古びた街路を歩いた。その街の歴史は五世紀にまで溯るものだった。それほど広くはない中央通りを突き抜けて、いくつもの曲がりくねった階段が急勾配をなして、山の斜面に昇りつめていた。往き交う人びとの何人かは明らかに外国人だった。オーストリア、チェコスロバキア、ドイツ、フランス、イギリスからやってきた観光客や旅行者なのだろう。その他ほとんどの人は、年寄りから若者にいたるまで、鮮やかなホームスパンの民族衣裳を身にまとった生粋のダルマチア人か、そうでなければ、爪先の尖ったセルビア風のサンダル「オパンケ」を履き、ダブついたバギーに締まったジャケットを着た、赤いトルコ帽のセルビア人労働者であったりした。彼らは、近隣のボスニアやヘルツェゴヴィナからやってきている回教徒であった。顔にベールをかけて歩いている回教徒の婦人がいるかと思えば、二人のカトリック教徒の尼僧に出喰わしたりした。家の戸口では、母親たちが座ったまま、赤ん坊に乳をあたえていた。そして、どこへ行っても、子どもたちでいっぱいだった。
「ほら、あの顔見て!」と、ステーラは何度も叫んだ。
「野暮ったい顔だけど、素敵だわ。褐色の肌って、とても健康的ね」
ドゥブロブニクでは、リスボンやジブラルタル、ナポリ、パレルモなどと違って、むりやり物を売りつける者もいなかった。ここでは言い寄るガイドも、胡散臭い目つきで卑猥な写真を売りつける男もいなかった。小さなバザールはがらんとして、農民たちの手づくりの刺繍や宝石細工や陶器を並べた店頭では、売り子たちが表面上は、客が商品を買っても買わなくてもどうでもいいといった風情で、仲間同士、雑談をしながら笑っていた。露台の向こうで、じっと腰かけたまま、暖かい日だまりのなかでうとうとしている者もいた。
埠頭に戻る途中、急勾配の石段を下りて行くと、私たちは一人の若い娘に出会った。黒い髪に、青い目、背の高いみごとなプロポーションの肢体には、色とりどりの織布で編んだ南ダルマチア地方の衣裳のなかでもとりわけ際立った色彩を放つラグーザの衣裳がからまっていた。頭の上には大きな籠をのせていて、それは彼女の一部のように見えた。たぶん洗濯物でも入っているのだろう。その姿は、古い街並みに映えて立つモダンな像といった感じだった。彼女はお尻をゆすりながら歩いてきた。腕まくりした素肌の腕は引き締まり、片方はピンと肘を張り、もう一方はキングサリの花束を抱えていた。
前方の私たちを認めたのだろう。彼女の歩調は急にゆっくりしたものになった。きっとステーラのアメリカン・ドレスに興味を持ったにちがいない。
「ドバール・ドン!(こんにちは!)」と、私が声をかけると、
「ドバール・ドン!」と彼女は応じ、にっこり微笑んで立ちどまり、こう言った。
「お国(ナシュキ)はどちらですか?」
「スロヴェニアで生まれたけど、若いころアメリカへ渡ってね。ワイフはアメリカ人だよ」
「まあ、そうですの」
彼女は興味ぶかそうに言った。
「わたしの叔父もアメリカにいるんです。あの大きなミィ・シィ・シィ・ピィ・河」と、音節を一つひとつ区切って発音しながら、「その河が海にそそいでいるあたりの、ルイジアナで漁師をしているんです」
「この娘(こ)、きれいね。すっごいボリュームだこと!」と、ステーラが言った。
私はそれをその娘に訳した。
「ワイフは、きみが美しくて、素晴らしいプロポーションをしているって言ったんだよ」
娘の顔に笑顔がひろがり、頬から首のあたりがぽっと赤らんだ。
「ハバラ・リエパ! アメリカの奥様こそ、おきれいだっておっしゃってください」
私は妻に訳した。娘は腕のなかのキングサリの花束から数本の小枝をステーラに渡すと、黙って階段をのぼっていった。
「このことなのよ、私がいつも素晴らしいことって言っているのは、」と、ステーラは娘のうしろ姿を振り返りながら、「ああいう素朴で純真な心のことなのよ」と言った。
私はユーゴスラヴィアを、そしてこの国の人びとを、好きになれるかもしれないという気がした。祖国での滞在が、厳しい試練になる、というよりも楽しい体験になるだろうと、ふっと希望が沸いてきたのだ。
4
一五時間後、土曜日の正午前に、船はトリエステの岸壁に横づけした。私たちが下船の準備をしていると、非常な丁寧さと礼儀正しさで圧倒せんばかりのスロヴェニア紳士が乗り込んできた。彼は私に会釈し、ステーラの手をとってキスをしたあと、いかにもかしこまったふうに、ぎくしゃくした言い方でこう告げたのである。
「私は、ドラフスカ州の総督から直接使わされて参上した者であります。イタリアとユーゴスラヴィア国境において、当方側の税関もしくは出入管理事務所の者たちが、ご貴殿と奥様のお荷物を妨害しご迷惑をお掛けしたのではあるまいかと、そういうことで参った次第です。ご貴殿方のドラフスカ州滞在に関しましては、私どもができうる範囲内で、ご満足いただけるよう最善を尽くしたいと願っておりますです。何かご用がございましたら、ご遠慮なく私にお申しつけください」
紳士はそう言うと、続けて二度も会釈した。
「スロヴェニアは、ということはユーゴスラヴィア全体でもありますが、ご貴殿のご帰国に際しましては敬意を表し、大歓迎いたしておりますです」
私はこの一六年間、スロヴェニア語をしゃべったことがなかったが、恐縮のあまりなんとか正しいスロヴェニア語でお礼を述べた。それから、ステーラに状況を説明した。彼女は目を丸くして言った。
「でも、どうして? あなたが作家だから?」
「そうだろうね」
「大きな世界に飛び込んでいった少年が、故郷に錦を飾ったってわけ!」
私たちはおもわず笑ってしまった。当の紳士を見ると、彼も遠慮がちにだが笑っている。もちろん、英語がわかるわけではないから、お追従笑いにきまっている。私もあえて、私たちがどうして笑ったのか彼に説明はしなかった。たとえば、アメリカで出版した私の二冊の本について、どのように説明できただろう。国中の批評家や評論家に賞賛されたにもかかわらず、二冊の売れ行きは惨澹たるもので、私は無名の、永遠に出版の拒絶票を恐れて暮らしている多くのヘボ文士の一人にすぎず、しかもアメリカでは、作家たるものは自画自賛などはしないものであり、表向きは敬意をあらわす政府に対しても、どことなく胡散くさいものを感じていたからである。
紳士は、書類鞄のなかから、スロヴェニアやその他ユーゴスラヴィアの地方で出されている、最近の新聞の束を取り出した。そこには私について、「あまねく知られた名声」とか「大偉業を成しとげた」という、いかにも大仰で、長ったらしい記事が載っていた。なかには短い社説を載せていて、こんなふうに結んでいる新聞も二、三あった。
「帰国歓迎! わが同胞の誉れ、著名なる訪問者」――これすべて、大文字であった。
「ご高覧のように、」と、紳士は切り出した。
「国中が熱狂しておりますです。リュブリャーナの新聞記者たちは、いますぐにでもご貴殿にどうしても取材をするといってきかないのでありますが、とりあえずは、ご旅行のお疲れを癒したいでしょうし、その後は、ご帰郷もなさりたいかとも思いましたので、あの連中には、私の方からよく言い聞かせておきました。ご貴殿にお時間がいただけるまで、インタビューは差し控えるように申しつけておきましたです」
「いやはや、ご親切痛み入ります」
私をインタビューするって! 一体、何についてだ? これまで私の人生で一度だってインタビューされたことはなかったのに。
私は、なぜこんなことになってしまったのか、わからなかった。二冊の本は両親に送ってはいたが、そこから誇大宣伝めいた尾びれがついたとは思われない。時どき、故郷の知人からリュブリャーナの数紙に載った小さなコラムの切り抜きを送ってもらっていたが、それだって騒動の火元だとは思われなかった。
そういえば、ニューヨークで船に乗り込む一週間ほど前、私に電話をくれた男がいた。相手は、ユーゴスラヴィアの新聞数社の特派員だと名乗り、こんどのヨーロッパ行きについて、あれこれ質問したあと、「ユーゴスラヴィアにも立ち寄るんですか」と聞いてきた。私は「そのつもりだ」と答えた。男は私の「アメリカでの経歴を追ってきた」とも語り、「ご帰国についてはちょっと紹介させてもらいます」と述べた。たしか、「小さな記事に」というニュアンスだった。それが、いま、私の目の前にあるリュブリャーナ、ザグレブ、ベオグラード、スプリット、サライェヴォ、その他国内の二、三の都市で出されている十数紙に、おどろおどろしい見出しがふられてのっている、中味のない記事の火元というわけだったのだ。
私は嘆息した。こんな調子では、これから先、どんなことが待っているやら!
5
トリエステからリュブリャーナへ向かう、短い汽車の旅は、たのしい経験であった。とくに、イタリアとの国境線を横切って、故国に入ってからはなおさらだった。
まさしく春爛漫の昼下がり。前の週から私の心にわだかまっていた不安の影はほとんど消し飛んでいた。一見したところ、カルニオーラは何ひとつ変わっていなかった。昔と同じように、いくつもの支流をもったサバ川が流れ、小さな湖がひらけ、小さな滝がしぶきを打っていた。同じように、こんもりと緑が繁る丘陵や山々があり、その山頂は雪をいただいていた。畑も草原も、村も教会もいまなおそこにあり、それらを取り囲む外壁には、農民の芸術家によって未完成のフラスコ画が描かれてあった。そして村人たちも、昔から少しも変わることなく汗水たらして働いていた。ゆっくりと、辛抱づよく、どことなく非能率的に(アメリカナイズされた私の目からすると)、原始的ともいえる農具を使って、地味ゆたかな土地を耕していた。世界大戦の折、最も激しい戦闘が数度にわたってカルニオーラの目と鼻の先で繰り広げられたにもかかわらず、そして、一九一八年のオーストリアからユーゴスラヴィアへ鞍替えした急激な政治的変動にもかかわらず、外の風に少しもゆらぐことなく、ふるさとは本来の姿を保ち続けていた。
私はカルニオーラの自然が、これまで見てきたどんな世界のそれよりも美しいというつもりはない。私はアメリカにある、はるかに雄大な景観を知っている。しかしその自然は新興の力、人工的な家並みや町並み、屋外の宣伝広告や空き缶の山、廃棄された機械の残骸などによって台無しにされている。それに比べてカルニオーラでは、小さな村の素朴な農家の建築物ですら、周りの自然に溶け合い、土地の美しさをより引き立たせるようにして建っていた。家並みも村落も、すべてがおなじ土壌から派生してきたように、あるべきところに存在している感じなのだ。すべてが数百年にわたってそこにあり、森や湖や草原と調和して、息づいていた。一つひとつが全体を構成する大切な要素となり、おたがいが共振し合って、この土地に特徴ある形を与えていたのだ。
同じことは人びとにもいえた。農民たちはぬかるみで牛を追い、女や子どもや年寄りたちは色鮮やかな仕事着を着て、草原の中にしゃがみこんで雑草を刈り、そしていま、仕事の手をやすめて、汽車の中の私たちに向かってにこやかに手を振っている。川縁にいる少女たちは、裾のひらひらしたペチコートを着て、大きな岩の上に重たいホームスパンの布をたたきつけながら洗濯に余念がなかった。家の前では、元気な子どもたちが裸足で飛びまわっていた。彼らは、カルニオーラの風景と深く調和した反映物であり、私には永遠に解くことのできない、大切な、固有のものであるように思えた。
私は帰ってきてよかった、と思った。カルニオーラの風景が胸に迫ってきたのは、それが美しいというだけでなく、そこがまさに私の祖国であったからだ。私は、線路沿いの農夫たちに向かって、大声で叫びたい衝動にかられた。
汽車から見ているうちに、もうひとつ別な感慨に捕らわれた。カルニオーラがあまりに小さく見えたのだ。子どものころ、リュブリャーナからトリエステまで旅したことがあったけれど、あの時は長い長い道程だった。それがいま、滑稽にも「急行」と呼ばれているのろのろの列車に乗っても、わずか二、三時間の短い旅なのだ。汽車は数分ごとに村や小さな町に停車した。ふっと、名前だけはなんとか蘇ってきた。宏大なアメリカの距離感に馴れた私には、カルニオーラの土地は、昔と比べて一〇分の一にも縮まってしまったように思えた。カルニオーラ全体は、アメリカの大西部にある一つの牧場とか小さな国立公園からというより、オーストリアの一つの小さな州から縮こまっている印象だったのだ。
夕暮れ近く、汽車はリュブリャーナに到着した。想像していたよりもはるかに小さな街だった。人口だって七万五〇〇〇人にすぎないという。やはり、私の背後にニューヨーク、ロサンゼルス、カンザスシティ、シカゴといった巨大都市のイメージがちらついていたからであろう。
そのまま、故郷の村へ行くこともできたが、あの総督の代理と称した紳士が手配してくれていたホテルに入った。
夕食後、ステーラは床に入ったが、私は眠れなかった。
私は外に出た。薄暗い、しんと静まりかえった、人影もまばらな街路を夜更けすぎまで歩いた。そして、なにより嬉しかったことは、リュブリャーナは本質的に昔となんら変わってはいないことだった。
たしかに、古代ローマの城壁は、私が記憶していたよりもいくぶん崩れかかっているように見えた。街の中央には、一二階建ての高層ビルが建築中だった。しかし、リュブリャニツカ川には昔とおなじ橋が架かり、丘を見上げると、九〇〇年も前に造られた城砦と城郭が、闇のなかに浮かび上がっていた。同じく古い建物の市庁舎も昔のままだった。その前の広場には元々、オーストリア皇帝でハンガリー国王でもあったフランツ・ヨーゼフ一世の銅像が建っていたが、いまではそれに代わって、セルビアの故ペータル王の新しい像が建っていた。古い教会、作家や法学者、音楽家、雄弁家、詩人たちの記念碑があり、戸口の上にすすけた看板をかかげた商店も軒を並べていた。私が高等中学校(ギムナジウム)に通っていた一二、三のころ、ここでいつも鉛筆やノートを買ったり、昼食のためにロールパンやりんごを買ったり、たまにチョコレートやケーキを買ったりしたものだった。二〇〇年の古い歴史をもつ本屋さんには、私の本も置かれてあった。また、二週間に一度、母がここにやってきていた。「きっと、いまでもそうしているにちがいない」と、心の中で呟いた。それから、私の通った学校があり、二年間住んだ寄宿舎があった。初めてシェークスピアを観たのもこの街の劇場であった。あらゆることが記憶の底から蘇ってくる。もはやリュブリャーナは、私の人生には欠くことのできない、重要な場所であった。
年老いた掃除夫たちが、樺の木でつくった長い箒を手にして、昔とまったく変わらないやり方で夜の通りを掃いていた。点灯夫が、街灯の高い柱にのぼって、明かりを灯していた。そして寸手のところで、黒い小男にぶつかりそうになった。煙突掃除夫だ! 私はおもわずコートのボタンを握りしめた。煙突掃除夫に出遭ったとき、ボタンを握ると幸運がおとずれるという、子どものころの迷信が無意識の襞に蘇ったからだ。
カーテンが引かれた古びたコーヒーハウスの窓越しから明かりが漏れていた。私は中に入ってコーヒーを注文した。テーブルのほうに目をやると、ちょうど一九年前のように、新聞をひろげたり、チェスやドミノをしたり、低い声でぼそぼそ話し合っている人たちでいっぱいだった。そこはいたって平静だった。少なくとも私にはそのように思われた。
私は、内心、深い高揚感と満足感をおぼえながら、ホテルに戻った。
6
疲れていたけれど、夜明けまで寝つけなかった。ぴーんと張りつめた緊張感が体にからみつき、頭の中では、いろんな思い出が走馬灯のように回り続け、明日のことを思って、心は高鳴った。……母は、いったいどんな顔をしていただろうか? 突然、そんな思いにとらわれた。家を出たとき、母はまだ若かった。
「どちらかというと背の高い」と、私は一九三一年に発表した自伝的な物語『ジャングルの中の笑い』で、母の面影を描いていた。
「ゆったりしたバストと大きなお尻。長い腕と仕事向きの大きな手。広くて日焼けし、歳月で皺のよったスラブ女の顔。まるくて、大きな、焦点の定まらない目。その目はいつもおだやかに、無邪気に、いたずらっぽく輝いている。そして、サラサラと波うつ房のとび色の髪が、あごの下で結ばれた、色鮮やかなネッカチーフの間からこぼれていた」
母は五〇の後半であった。一三人の子どもを産み、一〇人を育て、休みなく働き続けてきた。そして、父は? 八〇を過ぎていた。……家は? 六〇〇年前に建てられたままの古さだった。屋根を葺きかえたことを除けば、私が育ったころとちっとも変わっていないにちがいない。
朝になり、私たちはホテルの階段を下りていった。がらんとしたロビーの真ん中に、背の高い二人の若者を見た。二人ともすぐにはこちらに気づかなかった。一人はロビーのあたりを行ったり来たりしていた。もう一人は猛烈にタバコを吹かしていた。
「あら、弟さんたちじゃないかしら!」
ステーラが息をはずませて言った。私たちは、階段の途中で足を止めた。
「ほんと、あなたにそっくりよ!二人ともハンサムだけど、なんてハンサムなこと!」
少年たちがこちらを見た。青銅色の広い顔がかがやき、大きな白い歯がにやりと笑った。二人は駆け寄り、私も急いで階段を下りたので、最下段のあたりでぶつかりそうになった。握手しながら笑い出した。ステーラも近づいてきた。しばらくの間、私たちは口をきくことも忘れ、ただ笑っているだけだった。
弟たち、フランツとヨゼは、高等中学校(ギムナジウム)の学生だった。昔の私の場合とちがって、リュブリャーナに下宿することなく、毎日汽車で通学していた。一見、垢抜けしたように見えるけれど、じつは根っからの農夫であった。逞しく、健康で、バイタリィティにあふれ、二人ともでっかい手をしていた。二人を代わるがわる見ていると、妙に頼もしい気分になってきた。若いころの私が目の前にいるような錯覚にとらわれたからだ。ステーラも私も二人から目を離すことができなかった。二人はドイツ語とフランス語をほんの少しだけしゃべれたので、ステーラとはなんとか意思は通じていたが、でも、感激のあまり、お互いうまく話せないふうだった。
ようやくのことで、二人は、母から言われて私たちを迎えにきたことがわかった。私たちを朝一番の汽車に乗せて、午後には家に着けるように手伝いなさい、と言われてきたのだ。
フランツはこんなふうに村のことを説明してくれた。
「村じゅうが、ほんとに谷間じゅうが、大騒ぎだよ。このところ、俺たちの郡の一七の村やそのほかのところでも、兄さんの噂でもちきりなんだ。新聞の売れ行きも一〇〇倍になったっていうし、みんな、兄さんのことを読んで、会いたがっているんだ。だって、アメリカンカと結婚したのは、谷間じゃ兄さんが初めてだからね。家はもうてんやわんやだよ。ここんとこ、だれもぐっすり眠った者はいないよ。母ちゃんも、パウラも、ポルダカも、みんないっしょの部屋で寝てんだけど、ほとんど眠ってなんかいないんだよ。兄さんのことをあれこれ想像したり、どんなふうに変わったか話したりしてたよ。ゆうべなんか、〝放蕩息子〟の帰郷を祝って、いちばんいい子牛を殺すことを話したりしてたよ。でも、まだ子牛だし、生まれて二週間しかたっていないし、体つきも貧弱だから、もう少したったら聖書に書いている重さになるっていうから、それまで待つことに決めたんだ」
私は何度も笑ったが、フランツの乱暴な言葉を、ニューヨーク生まれのステーラに説明することはできなかった。
次第に、私はこんなふうに思うようになった。この十九年のあいだアメリカで生活してきた私が家族の者を思うより、故郷の家族のほうが私のことを思っていてくれたのではないだろうか、と。私はアメリカでの熱狂的な生活に埋没し、家族や祖国に対して、ほとんど思いをいたさないできた。それに比べ、みんなにとっての私は、一四歳でちっぽけなカルニオーラを飛び出し、広い世界へ冒険に出た、こわいもの知らずのマルコ・ポーロであった。そして、長い航海の末に、ようやく故国に帰ってきたのだ。新聞では、私は新世界で大物になっていたし、名士になっていた。私は、知られざる小宇宙カルニオーラに、名声をもたらしたのだ! と。
故郷へ向かう汽車の中で、ステーラと私はこれについて話した。
「ほんとに面白いわ!」と、ステーラが言った。
「突然、小さな池で、でっかい蛙になったってわけさ!」と、私は言った。
故郷の村の、ひとつ手前の村にある小さな停車場は、私の記憶しているものよりはるかに小さく見えたが、大ぜいの村人たちでごったがえしていた。初老の農夫、女たち、若い男女、子どもたち、ひとり残らず晴れ着をまとって、なかにはこの地方特有の民族衣裳を身につけた少女たちもいた。くすくす笑っている少女たちを除けば、残りの人びとはみな押し黙ったまま、こちらを見ていた。ほとんど知らない顔ばかりであったが、二、三かすかに見おぼえのある顔もあった。
それはなんともいえず、気分のよい、そして胸に迫る瞬間だった。
汽車を降りると、あっちこっちから指で体をつつくようにして手が差し出された。一人の青年が叫んだ。
「ポズドラヴレン!(お帰り!) 俺、おぼえてる?」
私はおぼえていた。私たちが笑い出すと、周りにも笑いのざわめきはひろがっていった。
人ごみの中から、二人の瓜ふたつの顔立ちをした若者が進み出た。二人はフランツやヨゼよりも年長で、背丈もすこし高かった。その一人はとびきしハンサムで、ステーラはうれしさのあまり黄色い声をあげた。
「スタンです」
握手をしながら言ったのは、一番上の弟だった。にやにや笑っている。ばかでかい手と眼差しには、強い男の優しさがあった。
「俺、アンテ」
もう一人も、にこやかに歯を見せながら言った。兄弟のうちで一番顔立ちがよいと思われるこの弟にも、街のにおいはなく、世間ずれしていない農夫の質朴さがただよっていた。
それから、兄弟五人全員とステーラもいちどきに笑った。それにつられて、周りの人たちもどっと笑った。
「親爺やおふくろや妹たちは?」
「家だよ、みんな」と、スタンが答えた。
そして、またしてもみんなで笑った。そのあと、野原や畑を抜けてわが家に向かった。うしろからは、子どもたちや犬たちがぞろぞろついてきた。谷間はあまりにも小さく見えたけれど、美しさに変わりはなかった。春はおそく、いま、草や花はようやく芽を吹き出そうとしていた。きらきら輝く緑の草原には、黄色のきんぽうげや紫色のクローバーの上を、蜜蜂が羽音をたてながら飛び交っていた。水路沿いには忘れな草がこぼれんばかりに群生し、はしばみ色の薮の木陰には、無数の百合の花が咲いていた。
一瞬、谷間にあるすべてのものが、やわらかに私の体内に忍び込んでくるのを感じて、私は胸が熱くなるのをおぼえた。
わが村、ブラトには、また小さな集団が待っていた。見覚えのある顔も何人かそこにはあった。二、三の伯父、たくさんの伯母やいとこたち、なかにはわざわざ近くの村からやってきた人たちもいたが、彼らは昔ながらの心あたたまる如才無さで、すぐさまわが家へ連れて行ってくれた。
7

一九一三年に別れを告げたときと、同じ中庭の同じ場所に待っていた母の姿は、私の胸にぐさりと突き刺さった。母は年をとり、髪も白く薄くなっていて、目や頬のあたりの皺はいちだんと深まっていた。だが、その抱擁は昔とかわらず、しっかりと強かった。
突然、私は母にめったに手紙を書かなかったことを、すまなく思った。それで、なにか母に言ってやりたかったが、誰がこんな瞬間に話すことができよう。母もまた黙ったままだった。そして、かすかに微笑みを浮かべながら、私を抱擁し、正面から私の両手をしっかり握ったまま、身体をかすかに左右にゆらし続けるばかりであった。
父もまた白髪が進み、身体も縮んでいたが、ふるえる皺だらけの手は意外としっかりしていた。そして、笑顔で、「お前、やっと帰ってきたな、」と喜びをあらわした。
さらに妹たちが待っていた。そのなかの四人は家の壁にもたれていた。
「トンチカです」と、ベオグラードから里帰りしていた長女が言った。まるで若い寮母のように見えた。
「パウラです」と、次女が言った。茶色の髪を頭のまわりに束にして結んでいて、そしてちょっと陰影のある表情をしていた。これはあとで知ったのだが、失恋の後遺症だった。さしずめ、「危機を孕んだ美しさ」とでもいおうか。
「あたし、ポルダカ」三女。陽気で、あどけなさの残る顔の下には、民族衣裳が足元に流れ、背中には二本の太い、うす茶色の組み紐がぶら下がっていた。
喜びを表情いっぱいあらわしながら、小声で、
「あたし、とっても嬉しいわ!」と声をあげた。
「アニカ」末っ子。家族のなかの甘えん坊で、無口なはにかみ屋さんである。もちろん、私たちは初対面だった。
階上のドアのところに尼さんが一人あらわれた。マヌエラと改名した妹のミミである。今日は除階式以来の一年ぶりの里帰りだとのこと。私は彼女に近寄り、握手だけですました。抱擁もキスもできないと、前もって聞かされたからだ。ミミはただ静かに微笑みを浮かべているだけで、あえていえば、聖母マリアの顔のようだった。広い糊付きのまっ白な頭飾りの下にかがやく青い瞳と、赤くほてった頬と、卵型のなめらかな肌をした顔を見ながら、私は、なぜ尼さんなんかになったのかわからなかった。
私たちはみんなして、ぞろぞろと母屋に向かって歩いた。それは、父、祖父、曾祖父……と、何代まで溯るかわからないほど古い古い建物だった。ところどころ、修復の跡はあったが、全体は最初から変わることなくでんと建っていた。だが、エンパイア・ステート・ビルディングやグランド・セントラルのイメージからすれば、なんと小さい建物だろう。
私は、母や妹たちが一九一三年以前から使っていた台所用品をいまでも使っていることに気づいた。一階にも二階にも同じ古い煉瓦の暖炉があった。ベッドやテーブル、腰かけ、長椅子、箪笥、そして壁に掛けてある絵や装飾品もすべてが昔のままだった。変わっているところといえば、ちょうど蕾はじめたばかりの花を活けた花瓶が窓枠の下に飾られ、私たちのために新調したカーテンが吊され、ベッドカバーやテーブルクロスが新しいものと取り替えられていたものくらいだった。それらは、精巧なデザインと色彩をほどこしたレースや刺繍でつくられていて、妹たちが編んだものだった。……あとで知ったことだが、妹たちはユーゴスラヴィア農民手工芸協会に属していて、つくったものをエジプトに輸出し、メイド・イン・エジプト、あるいはメイド・イン・ベルギーとして、アメリカの輸入業者や外国からの旅行者に売られていた。 「きっと来年には、アメリカのどっかの貴婦人が、アレクサンドリアかカイロあたりで買ってくれるわよ!」妹の一人はそう言って、みんなを笑わせた。それはスフィンクスとピラミッドをかたどったレースだった。
大部屋には大きな食卓が用意され、料理やワインが並べられ、中央には忘れな草を活けた鉢が飾ってあった。私たちは腰を下ろし、ワインをほんのちょっぴりごちそうになりながら、食べはじめた。でも、いよいよ飲むころになると、母が心配したので、たくさんは飲めなかった。みんななんと言っていいのか感激のあまり思いつけず、それでも嬉しさと幸せに胸いっぱいになっていた。
食事の合間、満面に笑みを浮かべながらも終始悲しい顔を隠しきれない妹のパウラは、ステーラのジャケットと私のコートの襟に、谷間でつんできた数本の百合の花をそっとピンでとめてくれた。
「みんな素敵だわ、」と、ステーラが言った。
それを私はパウラに訳してやった。
「あっ、そうだわ、ことしは大ぜいだから、大鎌を使って牧草やクローバーを刈れるわね」と、パウラは言って、「お兄さん、よかったね、それから奥様も」と、にっこり微笑んだ。
ステーラは食卓での会話がさっぱりわからないので、場違いな感じを持っていたのだろう。私は、みんなの話を逐一訳して聞かせた。みんな、ステーラのほうを見て喜ばせようとしていた。だが、そうしたことは最初の間だけで、しばらくすると、身振り手振りの言葉をめいめい勝手に編み出して、私の助けなしに話すようになった。
元々、気さくな性質(たち)のステーラは、家族のお気に入りになるまでには、そんなに時間は要らなかった。
妹のポルダカがこんなことを言った。
「お兄さんは私たちのこと、ちっともわかっていないのよ。有名の作家だからつんとすまして、お高くとまった貴婦人を連れてくるんじゃないかって、私たちみんな、ほんとにびくびくしていたってことが。でも、安心しちゃった。心配なんかしてそんしたわ。義姉さんと話せたらいいのにな」
ステーラもこんなことを言った。
「ほんとに信じられないわ。ここにあなたの家族がいるってことが。武勇伝だって書ける家族じゃないの。……一四のあなたをアメリカに送り出したのだから、みんな冷たい人たちじゃないかって思っていたのに、でもいま、やっとわかったわ。あなたのことを心から愛しているのが。アメリカへ行くのだって、ちょっと変わったことだったかもしれないけれど、ごく自然な運命として受け入れたのよね。長いあいだ音信不通になっていても、あなたを思う気持ちは変わらずあったんだわ。素晴らしいことね。……あの人たちに私が好きだって言ってちょうだい」
私はその通りに訳して伝えた。
「ハバラ・リエパ(ありがとう)」
母とポルダカが答えた。ほかの者は何も言わず、にやにや笑ってうつむいていた。いちばん気の強いポルダカがひきとった。
「わたしたちみんなも義姉さんのこと好きだっていってよ。みんな抱きしめたいって思ってるって。でも、そんなことな馴れていないんだよなあー」
ステーラに訳しながら、その調子のおかしさに、私たちはいっせいに笑いこけてしまった。
*()の中はルビです。
『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々--アメリカ移民 ユーゴ・ルポルタージュ』
ルイス・アダミック著
田原 正三訳
THE NATIVE’S RETURN by Louis Adamic
◆解説、書評、あとがき等はここをクリック
改訂新版
『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』--アメリカ移民 ユーゴ・ルポルタージュ--
第一部 帰りなん カルニオーラへ
一九年後
一九三二年の早春、一年間のヨーロッパ行きを認めるグッゲンハイム財団フェローシップを受けたとき、私は三三歳で、アメリカへ来てすでに一九年が経っていた。一四歳のとき、私はほんの形ばかりの「都会教育」を受けた農民の子として、カルニオーラからアメリカに移住していた。当事のカルニオーラは、オーストリア領スロヴェニアとして小さな州であったが、いまではもっと小さな、新興国ユーゴスラヴィアの州の一部になっている。
この一九年の歳月は、私をアメリカ人にした。よく私は自分のことを、知人の大部分のアメリカ生まれの人たちよりも、もっとアメリカ人らしいアメリカ人だと思っていた。私は熱狂的といっていいくらいに、ひたすらアメリカの光景に惹かれてきた。この国のさまざまな社会運動、思潮、個性に、また技術的な進歩や、社会、経済、政治的な問題に、さらにはこの新世界が繰り広げる凄まじいまでのドラマに関心を注ぎ続けてきた。
アメリカの国外で起こる事件や出来事については、通りいっぺんの関心を抱くだけで、それもアメリカに関係し、あるいは影響を与えるものに限ってのことだった。私は英語で読み、英語で書き、英語で話した。アメリカへ来て一六年間というもの、同胞の移民たちとの身近かな付き合いはなかった。残りの三年間は、アメリカ軍の兵士であった。世界大戦が終わってからは、アメリカ大陸の優に半分以上を彷徨い歩き、さらにハワイ、フィリピン、ラテンアメリカ各地にまで足を伸ばした。ここ数年前からは、アメリカの作家となり、アメリカの読者に対して、アメリカの問題について書いてきた。そして、アメリカ人女性と結婚した。
妻のステーラには、私の故郷での幼年時代について、ほんの二、三の事実しか話していなかった。それで両親のこと、村のこと、そして生まれた家などについては、彼女には想像すべくもなかったろう。彼女は私の話すことなど、何ひとつ信じようとしなかった。彼女からすれば、私は頭のてっぺんから足の爪先までアメリカ人だったのだ。
私たちがヨーロッパへ旅立とうとしていた四月初めのある日、ステーラはこう言った。
「もちろん、カルニオーラのふるさとにも行くわよね」
彼女はそうするのが当然と言わんばかりだった。
「もちろんさ、」と、私は答え、もう一度、「もちろん」と小さく繰り返してから、こうつけ加えた。
「ほんのちょっと立ち寄るだけだよ」
ステーラは言った。
「そうだわ、あなた、向こうに、カルニオーラ――なんて素敵な響きなんでしょう――に、家族がいるって話してたでしょ。いまはどうしてるんでしょうね、知りたいとは思わない?」
「そりゃ知りたいさ」と、私は言ったものの、正直なところ、そうした会話を続けるのがひどく億劫だった。
そんなことがあったけれど、私は故郷のわが家へ、スロヴェニア語が話せないアメリカ人の妻を連れて、できれば五月一五日の午後には帰りたいと手紙を書いた。私たちの乗船する船が、トリエステ港に一四日に到着予定になっていたので、何をおいてもまず帰郷しようという気になったのだ。それからすぐに、イタリアかオーストリアのどこか山間(あい)の村を見つけて、アメリカについての新しい本の執筆にとりかかりたかった。
2
三週間後、船が大西洋の半ばに差しかかったころ、私はステーラに言った。
「こんどの帰郷は、どうなることか不安だよ」
「やっぱり気になっていたのね。いったいどうしたの?」
「そうだなあ」と、私は説明をはじめた。「家を出たのは、ほんのつい昨日のように思えるけど、実際はずっと昔のことになってしまった。あのころのぼくはまだ少年だったし、そのときと比べて、だいぶ変わったと思うよ、根本的にね。ぼくの感情も知的な生活もすべて、アメリカに根ざしているように思えるんだ。ぼくはアメリカに住んでるしね。ともかく、故郷は一〇〇万マイルも離れた別な惑星にあるようなものだし、そこにぼくの家族は住んでいるんだから」
ステーラは、わかるわ、といった面持ちで聞いていた。
「もちろん、家を出る前の両親のことはおぼえているけれど、もういまでは二人の記憶もぼんやりしたものになっている。この一九年間というもの、ヨーロッパはあらゆる人たちにとって激動の時代であったし、それがいきなりぼくの心に押し入ってきたことで。親爺たちだって変わったさ。単に年をとったというだけでなく、性格だって変わったにちがいないよ。そのことが家族とぼくを疎遠なものにしたと思うんだ。
カルニオーラには四人の弟と五人の妹がいる。一九年前は、そのうち七人がすでに生まれていた。あとの二人はその後生まれた子で、名前はヨゼとアニカというんだが、もちろんぼくは会ったことがない。それにもう、二人とも一七と一五だ。上の七人は、ぼくがアメリカに行った一九一三年までには生まれていたから、かすかにおぼえている。ぼくは長男で一四、ぼくの上に三人いたけど、みんな死んでしまっていた。長女のトンチカが一三だった。次男のスタンは一〇歳。一番下の弟、フランツは一歳とちょっとだった。いま、あいつも二一くらいになってるだろう。トンチカは三二になり、結婚して二人の子もちだよ。もうひとりの妹ミミは、ぼくが家を出たときは四つだったけれど、もう二三になり、ある慈善施設で働いている。改名してマヌエラというらしい。なぜ尼さんなんかになったのか、ぼくにはわからない。それから弟のアンテ、妹のパウラとポルダカ、かろうじて名前だけしか記憶にない。思い出すだけでも一苦労なんだ。でもともかく、ここまできたからには行くよりほかにないね」
「ほんとに面白くなりそうだわ」と、ステーラが言った。
「まったく、どうなることやら」と、私は答えた。
「ここ一五年間というもの、家族との手紙のやりとりもだんだん少なくなっていた。アメリカが参戦して二年間は手紙を書けなかった。ぼくはアメリカ軍に入っていたし、おたがい敵どうしだったしね。戦争が終わって二、三年しても誰にも書く気にはなれなかった。ようやく書く気になったのは、ここ八、九年のことだよ。それも半年に一度、当方は元気でやっております、みなさんもお身体を大切に、といった程度の短い走り書きを送るだけだった。それ以上は書けないよ。第一、アメリカやぼく自身についてどう書けばいいっていうんだ。アメリカについて、ぼくが思ってること、なんて素晴らしく、もの凄いところだとか、ここほどぼくの心を惹きつけ、胸躍らせるところはほかにはない、といったようなこと書けると思う? そんなことを書いてやったら、向こうは勝手に解釈し、とんでもない誤解をするにきまっている。それにいちいち説明を書いて送るなんてことはできゃしないし、だから、ぼくは書かなかったんだ。――どんなふうにとられるかわかったものじゃないからね。結局、みんなはアメリカとぼく自身のことについて、まったくといっていいほど知らないのも同然だった。アメリカのことを知るには、長い間そこに暮らしてみなきゃわからないしね。もし、ぼくが下手なことを書いてやったら、弟や妹たちはアメリカに興味を持ち、そのうちの誰かがはるばるやって来たかもしれないし、ぼくはそれが嫌だったんだ。苦労はぼく一人で十分だからね。それに、アメリカで生活するよりも、カルニオーラのほうがある意味では暮らし向きはいいかもしれない。……もうひとつの理由は、最近になってようやく、母国語のスロヴェニア語でごく平凡な事がらを表現できるようになった、ということなんだ。それでもスロヴェニア語で、たとえば、アメリカでのぼくの生活の複雑なことについて、書くことはまだできなかった。
「もちろん、家の者は、ぼくがアメリカで耐えて生きているってことや、手紙をちっともよこさないことについて、理解できなかった。みんな、農民らしい辛抱強さと農民としての誇りでもって、わけのわからない手紙をよこした。でも、それはぼくの手紙とそうたいして変わらなかったよ。母や妹や弟たちは、いつもおきまりのように、お手紙ありがとう、私たちもみんな元気でやっております、といった内容だった。たまに、トンチカが結婚した、とか、スタンとアンテは入隊しなければならなくなった、とか、ミミは尼さんになった、といったことだけで、それ以上のものじゃなかった。
「だから、想像だってつかない。経済的に家族の暮らしがどうなっているのか、皆目見当もつかないんだ。ぼくが村を去って、アメリカへ渡ったころは、父は村でも裕福な農夫だった。でも、いま、アメリカの新聞を信じるかぎりでは、ヨーロッパ全土は悪い状況に向かって進んでいるっていうし、家族の者がどうなっているかわからないんだよ。だから君は、ぼくが〝アメリカ帰り〟だっていうことを心にとめておくんだね。みんな、アメリカから帰るっていうだけで、たくさんのお金を稼いで、家族の生計を助けてくれることになっているんだ。ぼくの手持ちのお金ときたら、すべてグッゲンハイム財団からの支給されたものだし、君とぼくが一年間ヨーロッパに滞在するにはぎりぎりなんだ!」
しかし、ステーラは楽観的だった。
「あなたが考えているほど、そんなに心配しなくていいかもよ。それより、みなさん、あなたが一九年間も離れて暮らしたことや、こんな女と結婚したことが心配じゃないかしら。そう考えれば、おたがい様じゃないの」
「そうかもしれないね」
私はそう答えるよりほかなかった。
3
私たちの乗った船は、リスボン、ジブラルタル、カンヌ、ナポリ、そしてシチリアのパレルモにと寄港した。カンヌを除く、それぞれの寄港地では、下船したとたん、「ギミー! ギミー!」と叫び、腹ペコだ、何か食べものをくれ、と身ぶり手ぶりで駆け寄る、ボロをまとった一群の少年たちに取り囲まれた。
通りでは、とくにリスボンでは、腕に赤ん坊を抱いた母親たちがそばに寄ってきて、子どもが飢え死にしそうだ、と沈痛な顔つきで訴えた。もちろん、彼女らのほとんどは物乞いを職とするプロであった。
「ユーゴスラヴィアではもっとひどくなっているかもしれない」と、私は呟いた。
五月一三日、船は、かつてはオーストリア領であり、いまではユーゴスラヴィアの一部となっているダルマチア沿岸にそって航海をはじめた。沿岸づたいにくり広げられていく小さな島々や燦燦と輝く小さな町々の光景を眺めているうち、なぜだかわからないが、次第に気分が楽になっていくのをおぼえた。たぶん、沿岸にそって並ぶ小高い山並みが、私がかつて数年のあいだ住んだことのある、南カリフォルニアのサンペドロからサンディエゴにいたる風景に似ていたからだと思う。また、陽光ふりそそぐアドリア海が、地中海よりもさらに青く、私にはいっそう美しく見えたからにちがいない。
船はゆっくりとドブロブニク、いや、ラグーザの港に近づいていくと、そこには信じられないような、素晴らしい光景が眼前に開けた。
「まるで劇場の舞台のようだわ」と、ステーラは感嘆した。
すると、隣にいたもう一人のアメリカ人女性が、甲板の手すりにもたれながら言った。
「いまにも役者の一団があらわれて、歌いだしそうね。♪俺たち、陽気な村人は……って」
そこでは三時間の停泊だった。ステーラと私は船を下りた。乞食の群れはいなかった。埠頭では何人かの少年たちがいた。リスボンやパレルモでのようにボロをまとってはいたが、飢えや病気に悩まされているようには見えなかった。彼らは、口をでっかく開けて、にやりと笑った。白い丈夫な歯が、日差しなかできらっと光った。肌は茶褐色で、ほつれた黒い髪が、青い瞳の前に垂れさがっていた。
少年の一人にステーラは金貨(コイン)を差し出した。少年はびっくりして睨みつけた。
「ザストゥ?(なんのつもりだ?)」
「いや、この女(ひと)は、きみに金貨(コイン)をあげたかったんだよ」
私は少年に、クロアチア語で説明した。驚いたことに、突然、なんの抵抗もなく口をついて出た。少年は顔をしかめ、そして、「ハバラ・リエパ!(ありがとう!)施しじゃないんだね」と言った。それからふっと、何かが頭に閃いたにちがいない。日焼けした幼い顔がかがやいた。
「もし、あんたと、このご婦人が親切で気前がよければ」と、にやりと笑い、「できたら、アメリカのタバコをいただけないか、一服ためしにやってみたいんだ」と言った。
少年は数本のタバコを手にすると、目と口をいっぱいに開いて、何ともいえない笑顔のなかにくずれた。「ハバラ・リエパ!」と叫び、走り去る少年のあとを、他の少年たちがキャーキャー叫びながら追っていった。
私は晴ればれとした気分に浸った。
「わが祖国よ!」私は心の中で呟いた。
「施しじゃないんだね、だって」
私は、わんぱく坊主のあとを追い、思いきり抱きしめてやりたかった。
「わが祖国よ!」私は声高らかに言った。
ステーラは笑っていた。二人して笑った。
私たちは、日が燦燦とあふれ、日影の濃い、ドゥブロブニクの古びた街路を歩いた。その街の歴史は五世紀にまで溯るものだった。それほど広くはない中央通りを突き抜けて、いくつもの曲がりくねった階段が急勾配をなして、山の斜面に昇りつめていた。往き交う人びとの何人かは明らかに外国人だった。オーストリア、チェコスロバキア、ドイツ、フランス、イギリスからやってきた観光客や旅行者なのだろう。その他ほとんどの人は、年寄りから若者にいたるまで、鮮やかなホームスパンの民族衣裳を身にまとった生粋のダルマチア人か、そうでなければ、爪先の尖ったセルビア風のサンダル「オパンケ」を履き、ダブついたバギーに締まったジャケットを着た、赤いトルコ帽のセルビア人労働者であったりした。彼らは、近隣のボスニアやヘルツェゴヴィナからやってきている回教徒であった。顔にベールをかけて歩いている回教徒の婦人がいるかと思えば、二人のカトリック教徒の尼僧に出喰わしたりした。家の戸口では、母親たちが座ったまま、赤ん坊に乳をあたえていた。そして、どこへ行っても、子どもたちでいっぱいだった。
「ほら、あの顔見て!」と、ステーラは何度も叫んだ。
「野暮ったい顔だけど、素敵だわ。褐色の肌って、とても健康的ね」
ドゥブロブニクでは、リスボンやジブラルタル、ナポリ、パレルモなどと違って、むりやり物を売りつける者もいなかった。ここでは言い寄るガイドも、胡散臭い目つきで卑猥な写真を売りつける男もいなかった。小さなバザールはがらんとして、農民たちの手づくりの刺繍や宝石細工や陶器を並べた店頭では、売り子たちが表面上は、客が商品を買っても買わなくてもどうでもいいといった風情で、仲間同士、雑談をしながら笑っていた。露台の向こうで、じっと腰かけたまま、暖かい日だまりのなかでうとうとしている者もいた。
埠頭に戻る途中、急勾配の石段を下りて行くと、私たちは一人の若い娘に出会った。黒い髪に、青い目、背の高いみごとなプロポーションの肢体には、色とりどりの織布で編んだ南ダルマチア地方の衣裳のなかでもとりわけ際立った色彩を放つラグーザの衣裳がからまっていた。頭の上には大きな籠をのせていて、それは彼女の一部のように見えた。たぶん洗濯物でも入っているのだろう。その姿は、古い街並みに映えて立つモダンな像といった感じだった。彼女はお尻をゆすりながら歩いてきた。腕まくりした素肌の腕は引き締まり、片方はピンと肘を張り、もう一方はキングサリの花束を抱えていた。
前方の私たちを認めたのだろう。彼女の歩調は急にゆっくりしたものになった。きっとステーラのアメリカン・ドレスに興味を持ったにちがいない。
「ドバール・ドン!(こんにちは!)」と、私が声をかけると、
「ドバール・ドン!」と彼女は応じ、にっこり微笑んで立ちどまり、こう言った。
「お国(ナシュキ)はどちらですか?」
「スロヴェニアで生まれたけど、若いころアメリカへ渡ってね。ワイフはアメリカ人だよ」
「まあ、そうですの」
彼女は興味ぶかそうに言った。
「わたしの叔父もアメリカにいるんです。あの大きなミィ・シィ・シィ・ピィ・河」と、音節を一つひとつ区切って発音しながら、「その河が海にそそいでいるあたりの、ルイジアナで漁師をしているんです」
「この娘(こ)、きれいね。すっごいボリュームだこと!」と、ステーラが言った。
私はそれをその娘に訳した。
「ワイフは、きみが美しくて、素晴らしいプロポーションをしているって言ったんだよ」
娘の顔に笑顔がひろがり、頬から首のあたりがぽっと赤らんだ。
「ハバラ・リエパ! アメリカの奥様こそ、おきれいだっておっしゃってください」
私は妻に訳した。娘は腕のなかのキングサリの花束から数本の小枝をステーラに渡すと、黙って階段をのぼっていった。
「このことなのよ、私がいつも素晴らしいことって言っているのは、」と、ステーラは娘のうしろ姿を振り返りながら、「ああいう素朴で純真な心のことなのよ」と言った。
私はユーゴスラヴィアを、そしてこの国の人びとを、好きになれるかもしれないという気がした。祖国での滞在が、厳しい試練になる、というよりも楽しい体験になるだろうと、ふっと希望が沸いてきたのだ。
4
一五時間後、土曜日の正午前に、船はトリエステの岸壁に横づけした。私たちが下船の準備をしていると、非常な丁寧さと礼儀正しさで圧倒せんばかりのスロヴェニア紳士が乗り込んできた。彼は私に会釈し、ステーラの手をとってキスをしたあと、いかにもかしこまったふうに、ぎくしゃくした言い方でこう告げたのである。
「私は、ドラフスカ州の総督から直接使わされて参上した者であります。イタリアとユーゴスラヴィア国境において、当方側の税関もしくは出入管理事務所の者たちが、ご貴殿と奥様のお荷物を妨害しご迷惑をお掛けしたのではあるまいかと、そういうことで参った次第です。ご貴殿方のドラフスカ州滞在に関しましては、私どもができうる範囲内で、ご満足いただけるよう最善を尽くしたいと願っておりますです。何かご用がございましたら、ご遠慮なく私にお申しつけください」
紳士はそう言うと、続けて二度も会釈した。
「スロヴェニアは、ということはユーゴスラヴィア全体でもありますが、ご貴殿のご帰国に際しましては敬意を表し、大歓迎いたしておりますです」
私はこの一六年間、スロヴェニア語をしゃべったことがなかったが、恐縮のあまりなんとか正しいスロヴェニア語でお礼を述べた。それから、ステーラに状況を説明した。彼女は目を丸くして言った。
「でも、どうして? あなたが作家だから?」
「そうだろうね」
「大きな世界に飛び込んでいった少年が、故郷に錦を飾ったってわけ!」
私たちはおもわず笑ってしまった。当の紳士を見ると、彼も遠慮がちにだが笑っている。もちろん、英語がわかるわけではないから、お追従笑いにきまっている。私もあえて、私たちがどうして笑ったのか彼に説明はしなかった。たとえば、アメリカで出版した私の二冊の本について、どのように説明できただろう。国中の批評家や評論家に賞賛されたにもかかわらず、二冊の売れ行きは惨澹たるもので、私は無名の、永遠に出版の拒絶票を恐れて暮らしている多くのヘボ文士の一人にすぎず、しかもアメリカでは、作家たるものは自画自賛などはしないものであり、表向きは敬意をあらわす政府に対しても、どことなく胡散くさいものを感じていたからである。
紳士は、書類鞄のなかから、スロヴェニアやその他ユーゴスラヴィアの地方で出されている、最近の新聞の束を取り出した。そこには私について、「あまねく知られた名声」とか「大偉業を成しとげた」という、いかにも大仰で、長ったらしい記事が載っていた。なかには短い社説を載せていて、こんなふうに結んでいる新聞も二、三あった。
「帰国歓迎! わが同胞の誉れ、著名なる訪問者」――これすべて、大文字であった。
「ご高覧のように、」と、紳士は切り出した。
「国中が熱狂しておりますです。リュブリャーナの新聞記者たちは、いますぐにでもご貴殿にどうしても取材をするといってきかないのでありますが、とりあえずは、ご旅行のお疲れを癒したいでしょうし、その後は、ご帰郷もなさりたいかとも思いましたので、あの連中には、私の方からよく言い聞かせておきました。ご貴殿にお時間がいただけるまで、インタビューは差し控えるように申しつけておきましたです」
「いやはや、ご親切痛み入ります」
私をインタビューするって! 一体、何についてだ? これまで私の人生で一度だってインタビューされたことはなかったのに。
私は、なぜこんなことになってしまったのか、わからなかった。二冊の本は両親に送ってはいたが、そこから誇大宣伝めいた尾びれがついたとは思われない。時どき、故郷の知人からリュブリャーナの数紙に載った小さなコラムの切り抜きを送ってもらっていたが、それだって騒動の火元だとは思われなかった。
そういえば、ニューヨークで船に乗り込む一週間ほど前、私に電話をくれた男がいた。相手は、ユーゴスラヴィアの新聞数社の特派員だと名乗り、こんどのヨーロッパ行きについて、あれこれ質問したあと、「ユーゴスラヴィアにも立ち寄るんですか」と聞いてきた。私は「そのつもりだ」と答えた。男は私の「アメリカでの経歴を追ってきた」とも語り、「ご帰国についてはちょっと紹介させてもらいます」と述べた。たしか、「小さな記事に」というニュアンスだった。それが、いま、私の目の前にあるリュブリャーナ、ザグレブ、ベオグラード、スプリット、サライェヴォ、その他国内の二、三の都市で出されている十数紙に、おどろおどろしい見出しがふられてのっている、中味のない記事の火元というわけだったのだ。
私は嘆息した。こんな調子では、これから先、どんなことが待っているやら!
5
トリエステからリュブリャーナへ向かう、短い汽車の旅は、たのしい経験であった。とくに、イタリアとの国境線を横切って、故国に入ってからはなおさらだった。
まさしく春爛漫の昼下がり。前の週から私の心にわだかまっていた不安の影はほとんど消し飛んでいた。一見したところ、カルニオーラは何ひとつ変わっていなかった。昔と同じように、いくつもの支流をもったサバ川が流れ、小さな湖がひらけ、小さな滝がしぶきを打っていた。同じように、こんもりと緑が繁る丘陵や山々があり、その山頂は雪をいただいていた。畑も草原も、村も教会もいまなおそこにあり、それらを取り囲む外壁には、農民の芸術家によって未完成のフラスコ画が描かれてあった。そして村人たちも、昔から少しも変わることなく汗水たらして働いていた。ゆっくりと、辛抱づよく、どことなく非能率的に(アメリカナイズされた私の目からすると)、原始的ともいえる農具を使って、地味ゆたかな土地を耕していた。世界大戦の折、最も激しい戦闘が数度にわたってカルニオーラの目と鼻の先で繰り広げられたにもかかわらず、そして、一九一八年のオーストリアからユーゴスラヴィアへ鞍替えした急激な政治的変動にもかかわらず、外の風に少しもゆらぐことなく、ふるさとは本来の姿を保ち続けていた。
私はカルニオーラの自然が、これまで見てきたどんな世界のそれよりも美しいというつもりはない。私はアメリカにある、はるかに雄大な景観を知っている。しかしその自然は新興の力、人工的な家並みや町並み、屋外の宣伝広告や空き缶の山、廃棄された機械の残骸などによって台無しにされている。それに比べてカルニオーラでは、小さな村の素朴な農家の建築物ですら、周りの自然に溶け合い、土地の美しさをより引き立たせるようにして建っていた。家並みも村落も、すべてがおなじ土壌から派生してきたように、あるべきところに存在している感じなのだ。すべてが数百年にわたってそこにあり、森や湖や草原と調和して、息づいていた。一つひとつが全体を構成する大切な要素となり、おたがいが共振し合って、この土地に特徴ある形を与えていたのだ。
同じことは人びとにもいえた。農民たちはぬかるみで牛を追い、女や子どもや年寄りたちは色鮮やかな仕事着を着て、草原の中にしゃがみこんで雑草を刈り、そしていま、仕事の手をやすめて、汽車の中の私たちに向かってにこやかに手を振っている。川縁にいる少女たちは、裾のひらひらしたペチコートを着て、大きな岩の上に重たいホームスパンの布をたたきつけながら洗濯に余念がなかった。家の前では、元気な子どもたちが裸足で飛びまわっていた。彼らは、カルニオーラの風景と深く調和した反映物であり、私には永遠に解くことのできない、大切な、固有のものであるように思えた。
私は帰ってきてよかった、と思った。カルニオーラの風景が胸に迫ってきたのは、それが美しいというだけでなく、そこがまさに私の祖国であったからだ。私は、線路沿いの農夫たちに向かって、大声で叫びたい衝動にかられた。
汽車から見ているうちに、もうひとつ別な感慨に捕らわれた。カルニオーラがあまりに小さく見えたのだ。子どものころ、リュブリャーナからトリエステまで旅したことがあったけれど、あの時は長い長い道程だった。それがいま、滑稽にも「急行」と呼ばれているのろのろの列車に乗っても、わずか二、三時間の短い旅なのだ。汽車は数分ごとに村や小さな町に停車した。ふっと、名前だけはなんとか蘇ってきた。宏大なアメリカの距離感に馴れた私には、カルニオーラの土地は、昔と比べて一〇分の一にも縮まってしまったように思えた。カルニオーラ全体は、アメリカの大西部にある一つの牧場とか小さな国立公園からというより、オーストリアの一つの小さな州から縮こまっている印象だったのだ。
夕暮れ近く、汽車はリュブリャーナに到着した。想像していたよりもはるかに小さな街だった。人口だって七万五〇〇〇人にすぎないという。やはり、私の背後にニューヨーク、ロサンゼルス、カンザスシティ、シカゴといった巨大都市のイメージがちらついていたからであろう。
そのまま、故郷の村へ行くこともできたが、あの総督の代理と称した紳士が手配してくれていたホテルに入った。
夕食後、ステーラは床に入ったが、私は眠れなかった。
私は外に出た。薄暗い、しんと静まりかえった、人影もまばらな街路を夜更けすぎまで歩いた。そして、なにより嬉しかったことは、リュブリャーナは本質的に昔となんら変わってはいないことだった。
たしかに、古代ローマの城壁は、私が記憶していたよりもいくぶん崩れかかっているように見えた。街の中央には、一二階建ての高層ビルが建築中だった。しかし、リュブリャニツカ川には昔とおなじ橋が架かり、丘を見上げると、九〇〇年も前に造られた城砦と城郭が、闇のなかに浮かび上がっていた。同じく古い建物の市庁舎も昔のままだった。その前の広場には元々、オーストリア皇帝でハンガリー国王でもあったフランツ・ヨーゼフ一世の銅像が建っていたが、いまではそれに代わって、セルビアの故ペータル王の新しい像が建っていた。古い教会、作家や法学者、音楽家、雄弁家、詩人たちの記念碑があり、戸口の上にすすけた看板をかかげた商店も軒を並べていた。私が高等中学校(ギムナジウム)に通っていた一二、三のころ、ここでいつも鉛筆やノートを買ったり、昼食のためにロールパンやりんごを買ったり、たまにチョコレートやケーキを買ったりしたものだった。二〇〇年の古い歴史をもつ本屋さんには、私の本も置かれてあった。また、二週間に一度、母がここにやってきていた。「きっと、いまでもそうしているにちがいない」と、心の中で呟いた。それから、私の通った学校があり、二年間住んだ寄宿舎があった。初めてシェークスピアを観たのもこの街の劇場であった。あらゆることが記憶の底から蘇ってくる。もはやリュブリャーナは、私の人生には欠くことのできない、重要な場所であった。
年老いた掃除夫たちが、樺の木でつくった長い箒を手にして、昔とまったく変わらないやり方で夜の通りを掃いていた。点灯夫が、街灯の高い柱にのぼって、明かりを灯していた。そして寸手のところで、黒い小男にぶつかりそうになった。煙突掃除夫だ! 私はおもわずコートのボタンを握りしめた。煙突掃除夫に出遭ったとき、ボタンを握ると幸運がおとずれるという、子どものころの迷信が無意識の襞に蘇ったからだ。
カーテンが引かれた古びたコーヒーハウスの窓越しから明かりが漏れていた。私は中に入ってコーヒーを注文した。テーブルのほうに目をやると、ちょうど一九年前のように、新聞をひろげたり、チェスやドミノをしたり、低い声でぼそぼそ話し合っている人たちでいっぱいだった。そこはいたって平静だった。少なくとも私にはそのように思われた。
私は、内心、深い高揚感と満足感をおぼえながら、ホテルに戻った。
6
疲れていたけれど、夜明けまで寝つけなかった。ぴーんと張りつめた緊張感が体にからみつき、頭の中では、いろんな思い出が走馬灯のように回り続け、明日のことを思って、心は高鳴った。……母は、いったいどんな顔をしていただろうか? 突然、そんな思いにとらわれた。家を出たとき、母はまだ若かった。
「どちらかというと背の高い」と、私は一九三一年に発表した自伝的な物語『ジャングルの中の笑い』で、母の面影を描いていた。
「ゆったりしたバストと大きなお尻。長い腕と仕事向きの大きな手。広くて日焼けし、歳月で皺のよったスラブ女の顔。まるくて、大きな、焦点の定まらない目。その目はいつもおだやかに、無邪気に、いたずらっぽく輝いている。そして、サラサラと波うつ房のとび色の髪が、あごの下で結ばれた、色鮮やかなネッカチーフの間からこぼれていた」
母は五〇の後半であった。一三人の子どもを産み、一〇人を育て、休みなく働き続けてきた。そして、父は? 八〇を過ぎていた。……家は? 六〇〇年前に建てられたままの古さだった。屋根を葺きかえたことを除けば、私が育ったころとちっとも変わっていないにちがいない。
朝になり、私たちはホテルの階段を下りていった。がらんとしたロビーの真ん中に、背の高い二人の若者を見た。二人ともすぐにはこちらに気づかなかった。一人はロビーのあたりを行ったり来たりしていた。もう一人は猛烈にタバコを吹かしていた。
「あら、弟さんたちじゃないかしら!」
ステーラが息をはずませて言った。私たちは、階段の途中で足を止めた。
「ほんと、あなたにそっくりよ!二人ともハンサムだけど、なんてハンサムなこと!」
少年たちがこちらを見た。青銅色の広い顔がかがやき、大きな白い歯がにやりと笑った。二人は駆け寄り、私も急いで階段を下りたので、最下段のあたりでぶつかりそうになった。握手しながら笑い出した。ステーラも近づいてきた。しばらくの間、私たちは口をきくことも忘れ、ただ笑っているだけだった。
弟たち、フランツとヨゼは、高等中学校(ギムナジウム)の学生だった。昔の私の場合とちがって、リュブリャーナに下宿することなく、毎日汽車で通学していた。一見、垢抜けしたように見えるけれど、じつは根っからの農夫であった。逞しく、健康で、バイタリィティにあふれ、二人ともでっかい手をしていた。二人を代わるがわる見ていると、妙に頼もしい気分になってきた。若いころの私が目の前にいるような錯覚にとらわれたからだ。ステーラも私も二人から目を離すことができなかった。二人はドイツ語とフランス語をほんの少しだけしゃべれたので、ステーラとはなんとか意思は通じていたが、でも、感激のあまり、お互いうまく話せないふうだった。
ようやくのことで、二人は、母から言われて私たちを迎えにきたことがわかった。私たちを朝一番の汽車に乗せて、午後には家に着けるように手伝いなさい、と言われてきたのだ。
フランツはこんなふうに村のことを説明してくれた。
「村じゅうが、ほんとに谷間じゅうが、大騒ぎだよ。このところ、俺たちの郡の一七の村やそのほかのところでも、兄さんの噂でもちきりなんだ。新聞の売れ行きも一〇〇倍になったっていうし、みんな、兄さんのことを読んで、会いたがっているんだ。だって、アメリカンカと結婚したのは、谷間じゃ兄さんが初めてだからね。家はもうてんやわんやだよ。ここんとこ、だれもぐっすり眠った者はいないよ。母ちゃんも、パウラも、ポルダカも、みんないっしょの部屋で寝てんだけど、ほとんど眠ってなんかいないんだよ。兄さんのことをあれこれ想像したり、どんなふうに変わったか話したりしてたよ。ゆうべなんか、〝放蕩息子〟の帰郷を祝って、いちばんいい子牛を殺すことを話したりしてたよ。でも、まだ子牛だし、生まれて二週間しかたっていないし、体つきも貧弱だから、もう少したったら聖書に書いている重さになるっていうから、それまで待つことに決めたんだ」
私は何度も笑ったが、フランツの乱暴な言葉を、ニューヨーク生まれのステーラに説明することはできなかった。
次第に、私はこんなふうに思うようになった。この十九年のあいだアメリカで生活してきた私が家族の者を思うより、故郷の家族のほうが私のことを思っていてくれたのではないだろうか、と。私はアメリカでの熱狂的な生活に埋没し、家族や祖国に対して、ほとんど思いをいたさないできた。それに比べ、みんなにとっての私は、一四歳でちっぽけなカルニオーラを飛び出し、広い世界へ冒険に出た、こわいもの知らずのマルコ・ポーロであった。そして、長い航海の末に、ようやく故国に帰ってきたのだ。新聞では、私は新世界で大物になっていたし、名士になっていた。私は、知られざる小宇宙カルニオーラに、名声をもたらしたのだ! と。
故郷へ向かう汽車の中で、ステーラと私はこれについて話した。
「ほんとに面白いわ!」と、ステーラが言った。
「突然、小さな池で、でっかい蛙になったってわけさ!」と、私は言った。
故郷の村の、ひとつ手前の村にある小さな停車場は、私の記憶しているものよりはるかに小さく見えたが、大ぜいの村人たちでごったがえしていた。初老の農夫、女たち、若い男女、子どもたち、ひとり残らず晴れ着をまとって、なかにはこの地方特有の民族衣裳を身につけた少女たちもいた。くすくす笑っている少女たちを除けば、残りの人びとはみな押し黙ったまま、こちらを見ていた。ほとんど知らない顔ばかりであったが、二、三かすかに見おぼえのある顔もあった。
それはなんともいえず、気分のよい、そして胸に迫る瞬間だった。
汽車を降りると、あっちこっちから指で体をつつくようにして手が差し出された。一人の青年が叫んだ。
「ポズドラヴレン!(お帰り!) 俺、おぼえてる?」
私はおぼえていた。私たちが笑い出すと、周りにも笑いのざわめきはひろがっていった。
人ごみの中から、二人の瓜ふたつの顔立ちをした若者が進み出た。二人はフランツやヨゼよりも年長で、背丈もすこし高かった。その一人はとびきしハンサムで、ステーラはうれしさのあまり黄色い声をあげた。
「スタンです」
握手をしながら言ったのは、一番上の弟だった。にやにや笑っている。ばかでかい手と眼差しには、強い男の優しさがあった。
「俺、アンテ」
もう一人も、にこやかに歯を見せながら言った。兄弟のうちで一番顔立ちがよいと思われるこの弟にも、街のにおいはなく、世間ずれしていない農夫の質朴さがただよっていた。
それから、兄弟五人全員とステーラもいちどきに笑った。それにつられて、周りの人たちもどっと笑った。
「親爺やおふくろや妹たちは?」
「家だよ、みんな」と、スタンが答えた。
そして、またしてもみんなで笑った。そのあと、野原や畑を抜けてわが家に向かった。うしろからは、子どもたちや犬たちがぞろぞろついてきた。谷間はあまりにも小さく見えたけれど、美しさに変わりはなかった。春はおそく、いま、草や花はようやく芽を吹き出そうとしていた。きらきら輝く緑の草原には、黄色のきんぽうげや紫色のクローバーの上を、蜜蜂が羽音をたてながら飛び交っていた。水路沿いには忘れな草がこぼれんばかりに群生し、はしばみ色の薮の木陰には、無数の百合の花が咲いていた。
一瞬、谷間にあるすべてのものが、やわらかに私の体内に忍び込んでくるのを感じて、私は胸が熱くなるのをおぼえた。
わが村、ブラトには、また小さな集団が待っていた。見覚えのある顔も何人かそこにはあった。二、三の伯父、たくさんの伯母やいとこたち、なかにはわざわざ近くの村からやってきた人たちもいたが、彼らは昔ながらの心あたたまる如才無さで、すぐさまわが家へ連れて行ってくれた。
7

一九一三年に別れを告げたときと、同じ中庭の同じ場所に待っていた母の姿は、私の胸にぐさりと突き刺さった。母は年をとり、髪も白く薄くなっていて、目や頬のあたりの皺はいちだんと深まっていた。だが、その抱擁は昔とかわらず、しっかりと強かった。
突然、私は母にめったに手紙を書かなかったことを、すまなく思った。それで、なにか母に言ってやりたかったが、誰がこんな瞬間に話すことができよう。母もまた黙ったままだった。そして、かすかに微笑みを浮かべながら、私を抱擁し、正面から私の両手をしっかり握ったまま、身体をかすかに左右にゆらし続けるばかりであった。
父もまた白髪が進み、身体も縮んでいたが、ふるえる皺だらけの手は意外としっかりしていた。そして、笑顔で、「お前、やっと帰ってきたな、」と喜びをあらわした。
さらに妹たちが待っていた。そのなかの四人は家の壁にもたれていた。
「トンチカです」と、ベオグラードから里帰りしていた長女が言った。まるで若い寮母のように見えた。
「パウラです」と、次女が言った。茶色の髪を頭のまわりに束にして結んでいて、そしてちょっと陰影のある表情をしていた。これはあとで知ったのだが、失恋の後遺症だった。さしずめ、「危機を孕んだ美しさ」とでもいおうか。
「あたし、ポルダカ」三女。陽気で、あどけなさの残る顔の下には、民族衣裳が足元に流れ、背中には二本の太い、うす茶色の組み紐がぶら下がっていた。
喜びを表情いっぱいあらわしながら、小声で、
「あたし、とっても嬉しいわ!」と声をあげた。
「アニカ」末っ子。家族のなかの甘えん坊で、無口なはにかみ屋さんである。もちろん、私たちは初対面だった。
階上のドアのところに尼さんが一人あらわれた。マヌエラと改名した妹のミミである。今日は除階式以来の一年ぶりの里帰りだとのこと。私は彼女に近寄り、握手だけですました。抱擁もキスもできないと、前もって聞かされたからだ。ミミはただ静かに微笑みを浮かべているだけで、あえていえば、聖母マリアの顔のようだった。広い糊付きのまっ白な頭飾りの下にかがやく青い瞳と、赤くほてった頬と、卵型のなめらかな肌をした顔を見ながら、私は、なぜ尼さんなんかになったのかわからなかった。
私たちはみんなして、ぞろぞろと母屋に向かって歩いた。それは、父、祖父、曾祖父……と、何代まで溯るかわからないほど古い古い建物だった。ところどころ、修復の跡はあったが、全体は最初から変わることなくでんと建っていた。だが、エンパイア・ステート・ビルディングやグランド・セントラルのイメージからすれば、なんと小さい建物だろう。
私は、母や妹たちが一九一三年以前から使っていた台所用品をいまでも使っていることに気づいた。一階にも二階にも同じ古い煉瓦の暖炉があった。ベッドやテーブル、腰かけ、長椅子、箪笥、そして壁に掛けてある絵や装飾品もすべてが昔のままだった。変わっているところといえば、ちょうど蕾はじめたばかりの花を活けた花瓶が窓枠の下に飾られ、私たちのために新調したカーテンが吊され、ベッドカバーやテーブルクロスが新しいものと取り替えられていたものくらいだった。それらは、精巧なデザインと色彩をほどこしたレースや刺繍でつくられていて、妹たちが編んだものだった。……あとで知ったことだが、妹たちはユーゴスラヴィア農民手工芸協会に属していて、つくったものをエジプトに輸出し、メイド・イン・エジプト、あるいはメイド・イン・ベルギーとして、アメリカの輸入業者や外国からの旅行者に売られていた。 「きっと来年には、アメリカのどっかの貴婦人が、アレクサンドリアかカイロあたりで買ってくれるわよ!」妹の一人はそう言って、みんなを笑わせた。それはスフィンクスとピラミッドをかたどったレースだった。
大部屋には大きな食卓が用意され、料理やワインが並べられ、中央には忘れな草を活けた鉢が飾ってあった。私たちは腰を下ろし、ワインをほんのちょっぴりごちそうになりながら、食べはじめた。でも、いよいよ飲むころになると、母が心配したので、たくさんは飲めなかった。みんななんと言っていいのか感激のあまり思いつけず、それでも嬉しさと幸せに胸いっぱいになっていた。
食事の合間、満面に笑みを浮かべながらも終始悲しい顔を隠しきれない妹のパウラは、ステーラのジャケットと私のコートの襟に、谷間でつんできた数本の百合の花をそっとピンでとめてくれた。
「みんな素敵だわ、」と、ステーラが言った。
それを私はパウラに訳してやった。
「あっ、そうだわ、ことしは大ぜいだから、大鎌を使って牧草やクローバーを刈れるわね」と、パウラは言って、「お兄さん、よかったね、それから奥様も」と、にっこり微笑んだ。
ステーラは食卓での会話がさっぱりわからないので、場違いな感じを持っていたのだろう。私は、みんなの話を逐一訳して聞かせた。みんな、ステーラのほうを見て喜ばせようとしていた。だが、そうしたことは最初の間だけで、しばらくすると、身振り手振りの言葉をめいめい勝手に編み出して、私の助けなしに話すようになった。
元々、気さくな性質(たち)のステーラは、家族のお気に入りになるまでには、そんなに時間は要らなかった。
妹のポルダカがこんなことを言った。
「お兄さんは私たちのこと、ちっともわかっていないのよ。有名の作家だからつんとすまして、お高くとまった貴婦人を連れてくるんじゃないかって、私たちみんな、ほんとにびくびくしていたってことが。でも、安心しちゃった。心配なんかしてそんしたわ。義姉さんと話せたらいいのにな」
ステーラもこんなことを言った。
「ほんとに信じられないわ。ここにあなたの家族がいるってことが。武勇伝だって書ける家族じゃないの。……一四のあなたをアメリカに送り出したのだから、みんな冷たい人たちじゃないかって思っていたのに、でもいま、やっとわかったわ。あなたのことを心から愛しているのが。アメリカへ行くのだって、ちょっと変わったことだったかもしれないけれど、ごく自然な運命として受け入れたのよね。長いあいだ音信不通になっていても、あなたを思う気持ちは変わらずあったんだわ。素晴らしいことね。……あの人たちに私が好きだって言ってちょうだい」
私はその通りに訳して伝えた。
「ハバラ・リエパ(ありがとう)」
母とポルダカが答えた。ほかの者は何も言わず、にやにや笑ってうつむいていた。いちばん気の強いポルダカがひきとった。
「わたしたちみんなも義姉さんのこと好きだっていってよ。みんな抱きしめたいって思ってるって。でも、そんなことな馴れていないんだよなあー」
ステーラに訳しながら、その調子のおかしさに、私たちはいっせいに笑いこけてしまった。
*()の中はルビです。



