2011年11月23日水曜日

改訂新版『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々--アメリカ移民 ユーゴ・ルポルタージュ』 ルイス・アダミック著 翻訳掲載

改訂新版 
『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々--アメリカ移民 ユーゴ・ルポルタージュ』

ルイス・アダミック著 / 田原 正三訳

THE NATIVE’S RETURN by Louis Adamic




 

 

2008年7月9日水曜日

ルイス・アダミック 動乱のバルカンを旅する

ルイス・アダミックのルポルタージュ作品--動乱のバルカンを旅する
 
改訂新版『わが祖国ユーゴスラヴィアの旅』
ルイス・アダミック著/田原正三訳

The Native's Return: An American Immigrant Visits Yugoslavia and Discovers His Old Country (New York & London :Harper,1934; London: Gollancz, 1934 370pgs)
The Book-of-the Month Club selection for February 1934、
 1932 年、「私」は妻とともに 19 年ぶりに故郷スロヴェニアに帰った。アドリア海のブルー、やさしい春の風、旧き良きフォークロアの数々、なつかしい母の姿……。しかしその後、ダルマチア、ヘルツェゴヴィナ、ボスニア、モンテネグロ、南セルビア、クロアチアと転々と旅して回るうち、私は次第に、この国が恐ろしい力によって支配され、人々を虐げていることに気づいた。そしてイタリアにムッソリーニが、ドイツにヒトラーが登場しつつあった!

1930 年代のバルカン半島の緊迫した政治・経済・文化状況を、その歴史や人々の生活――衣食住・民話・叙事詩・闘いなど――を通してあますところなく描き、50 年後の今日、ヨーロッパとバルカン諸国で起こっている「歴史的事件」の発生を鋭く予告した、すぐれたルポルタ―ジュ文学の傑作。月間図書選書。1930 年代大恐慌下の全米ベストセラー作品。


わが祖国ユーゴスラヴィアの人々(PMC社、1990 年)は、日本図書館協会選定図書、全国学校図書館選定図書に選ばれました。また同年季刊誌「翻訳の世界」において国内で出版された約500冊中ノンフィクション部門で12位にランクインしました。
・作品解説 ヘンリー・A・クリスチャン(ラトガーズ大学)
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『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』
ルイス・アダミック著 / 田原正三訳

 
 目 次
 第一部 帰りなん、カルニオーラへ
  1 一九年後
  2 従兄弟トネーの結婚
  3 死がヤネス伯父を待っている
  4 スロヴェニア人の悲劇
  5 マトヤッチ王伝説の生まれるところ
 第二部 アドリア海沿岸から山岳地帯へ
  6 南部国境にて
  7 ある淋しい女たちの村
  8 昼下がりのモンテネグロ
  9 ダルマチア ― 農民のリヴィエラ
 10 宙ぶらりんの街 ― サライェヴォ
 11 時計の針が止まった世界
 12 コソヴォの叙事詩
 第三部 ベオグラードとクロアチア
 13 急成長の首都
 14 クロアチアの苦悩
 15 独裁国王に会見する
16 アメリカへ
 
 
『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』 《解説》 ヘンリーA・クリスチャン(ラトガーズ大学)
田原正三訳  

「わが祖国ユーゴスラヴィアの人々」(原題The Native’s Return)は、読者をとりわけ喜ばせる幸せな状況描写からはじまっています。アダミックの多くの価値ある本のなかで、最も重要で素晴らしいこの移民の帰郷物語は、まさにこの作家なくしては書けない作品だったように思えます。とはいえ、この作家がそれまで一度も帰郷していなかったという事実や、ユーゴスラヴィアへ帰ることが決まったときでさえ、この本を書く予定がなかったという事実は、たいへん興味ある点です。しかも、ユーゴスラヴィアに帰り、そこで発見してものは、一九三二年という時代の故国の特殊な政治・社会状況であり、それを書くことによって、この本はさらに厚みを持ったのでした。 
ルイス・アダミックは、一九一二年の暮れ、当時、オーストリア・ハンガリー帝国領のカルニオーラ地方(一九一八年以降はユーゴスラヴィア領スロヴェニア)からアメリカに単身、移住しました。一四歳のときでした。彼は最初、ニューヨーク市のスロヴェニア語系新聞社「グラス・ナローダ」(人民の鐘)に雇われ、たまたまアメリカ国内や海外のニュースを翻訳するなどの重要な仕事に従事する幸運に恵まれました。新聞社で三年間働いたあとの一九一五年一二月、彼はアメリカ合衆国陸軍に入隊し、次の七年間をパナマ、ハワイ、アメリカ本土と従軍生活を送りました。一九二三年の除隊後は、二五年から二九年まで、カリフォルニア州サンペドロのロサンゼルス港の水先案内所の職員でした。

彼の創作活動は、すでに一九二一年ごろからはじまっていて、最初はスラブ系作家による珍しい題材を扱った作品の翻訳にあたったりしていましたが、実際にアメリカで注目を引くようになったのは、H・L・メンケン主宰の「アメリカン・マーキュリー」誌に数編の記事や物語を載せるようになってからでした。一九二八年に最初の単行本『ロビンソン・ジェファーズ―ある肖像』を出版すると、翌年にニューヨークに移りました。その後のアダミックは、着実に記事や物語、書評などを発表しながら、本格的な作品『ダイナマイト―アメリカにおける階級の暴力物語』Dynamite:The Story of Class Violence in Americaを一九三一年に出版しました。私生活の面ではこの年、ユダヤ系アメリカ女性で二世のステーラ・サンダースと結婚しています。翌三二年になると、初期のころから発表していた物語や、新しい素材を自伝的ストーリーの骨格に取り入れ合体させた、彼の代表作の一つ『ジャングルの中の笑い』Laughing in the Jungle:The Autobiography of an Immigrant in Americaを出版、同時に、グッゲンハイム財団フェローシップを受けて、ステーラ夫人を伴い、待望のイタリアのトリエステに向けて旅に出たのです。四月下旬のことでした。

アダミックの計画では、スロヴェニアの家族を数日間訪ねてから、イタリアかオーストリアで過ごすつもりでした。そこで、移民を背景に持つ数世代にわたるアメリカ人家族の小説を執筆しようと考えていたのです。しかし、ユーゴスラヴィアに帰り、しばらく滞在しているうちに、個人的な状況に心を奪われるようになったため、ペンの先から生まれた物語は帰郷についての自らの体験譚を中心にしたユーゴスラヴィアものになったのでした。六月になると、彼はその草稿をアメリカのリテラリ・エージェント社に送り、小説のほうはあと回しになる旨を告げています。

彼は当初の執筆計画に軌道修正をしたのは、故国の状況に深い関心を持ったと同時に、その一方では金銭面での苦労に直面していたからです。アダミックに支給されたグッゲンハイム財団奨励金は、ユーゴスラヴィアの貨幣価値からすれば、十分すぎるほどの大金でしたが、アメリカでの本の出版に関する前払い金は予想外の出費をまねき、一年の滞在費に心もとなさを感じるようになったわけです。八月になると、彼はエージェント社に対し、「例の移民ものの出版はあと回しにしたい」と再度手紙を書いていますが、小説への執筆を断念したわけではありません。同じ八月には、ハーパー&ブラザーズ社の編集者宛に、自分としては完璧な小説の「ほとんど半分以上、三万三〇〇〇語ほどを書き終えている」と、手紙を書いていますし、一二月にも、クロアチアの首都ザグレブにある出版社ビノザに、『暗黒の草原』と題する小説の原稿を半分を送り、一カ月後には残りの原稿を届けることを約束していることなどから、彼は小説を折にふれて書き続けていたことがわかります。この『暗黒の草原』は、のちの一九三五年に『孫たち』Grandsons:A Story of American Livesと改題されて出版されました。

一方、帰郷してからの自己体験記の発表は意外に早く進みました。一九三二年一〇月、「ハーパーズ・マガジン」誌に「アメリカからの帰郷」と題して掲載された作品は、たちまち大きな反響を呼び、素晴らしい成功を見たのです。こうなると、引き続きユーゴスラヴィアものを先行せざるを得なくなり、小説のほうはさらにあと回しにされることになりました。翌三三年一月には、同誌に二回目のユーゴスラヴィアもの「カルニオーラの結婚式」を発表すると、三月末のアメリカに帰るまでの時間を同じテーマの執筆に費やしました。

アメリカに戻ってからの数カ月間は、ニューヨークのアパートに引きこもって、いままで発表した作品に手を加えたり、新しく書き下ろしたりしてひたすら本の完成をめざしました。一二月、彼は、「アメリカ移民ユーゴスラヴィアを訪ねる」と題した原稿を出版社ハーパー&ブラザーズに提出しました。編集者はもっと簡潔でかつ説明的なタイトル、「帰郷―アメリカ移民ユーゴスラヴィアに帰り故国を発見する」的なものにしたいと意向を示し、結局、原題のThe Native’s Return:An American Immigrant Visits Yugoslavia And Discovers His Old Countryとして、翌年二月に出版されることになったのでした。出版されると、この本は多くの読者に迎え入れられましたが、とくに月間図書選書に指定されると、二年間にわたり全米のベストセラーとなり、さらには、ユーゴスラヴィア関係の書籍としては記録的な売れ行きを示し、その勢いは一九四〇年代まで続きました。

アメリカ帰国後のアダミックは友人たちに、ユーゴスラヴィアは、ある意味では、ヨーロッパで最も活力ある面白い国だ、大恐慌がどんなに影響を与えようが、アメリカの読者がこの本に関心を持たないはずはない、と自信のほどを語っていました。もちろん、この作品の成功の主な理由は、彼のペンの力に預かるところが大でしたが、同時に、作者自身、それを出版社やグッゲンハイム財団、知り合いの書評家や作家たちに大いに売り込んだ賜物でもあったのです。 作品に対する評価は、彼の予想、期待、努力をはるかに超えていました。いたるところで好評を博し、アダミックは突如として登場した、率直で、刺激的で、独創的な才能に恵まれた作家として評価されるようになったのでした。The Native’s Returnは、一九四二年にレベッカ・ウェストの『黒い仔羊と灰色の鷹』が出るまで、ユーゴスラヴィアについて英語で書かれた、最も情報量の多い、重要な、先見性のある本でした。しかも、アダミックの本はレベッカのそれよりもはるかに予言に満ちたものだったのです。

その予言は、たとえば次のようなところに散見されます。本書の第章の最終行で、アダミックは独裁国王アレクサンダルの行く末について、「今後、一年か二年、いや、五年か一〇年、アレクサンダルは権力の座にいるかもしれない。しかし、それ以上の将来は、彼には約束されていないのだ」と書きました。これを書いたのが一九三三年の春だとすれば、アレクサンダルがマルセイユで暗殺されたのは、わずか一年半の一九三四年の一〇月のことで、この予言はピタリ的中したのです。そのほかにも、来たるべき第二次世界大戦への予兆を告げる記述は随所に見られますし、続くチトー元帥の共産党政府の樹立、一九四八年のモスクワ・コミンフォルムからのユーゴスラヴィアの永久追放などの歴史的事件に見られる、ユーゴスラヴィアとこの国の人びとがとらなければならなかった運命的な選択についても、アダミックはこの本の「あとがき」(本書では省略)のなかで「集散主義国家による共和国のバルカン連邦あるいは東欧連邦を建設し、そして、お互いが何らかの満足いく形で、ソビエト社会主義連邦共和国に帰属すべきだ」と書き、その試みの成功と失敗の現実を見透したのでした。その失敗の原因は、何をおいても「お互いが満足いく形で」できなかったところにあったのです。こうして、アダミックのこの本は、時代、状況、作家の手腕と鋭い洞察、歴史観などあらゆるものが合体して創造された作品として、不朽のものになったのです。

読者のみなさんは、この本との最初の出合いから、一九三四年当時の読者が受けたと同じ感動を受けるはずです。アダミックのこの物語は、旅の始まりとともにはじまります。船に乗って祖国へ向かう作者に導かれて、読者もまた旅を開始し、とたんにその世界のなかに引きずり込まれてしまうのです。懐かしいカルニオーラの風景や農民の生活が描写されていくにしたがって、その〝旧世界〟に驚嘆し興奮する作者やその夫人の姿がありますが、それは読者自身の姿でもあるのです。

アダミックの読者を引き付ける技法は、連続性と手馴れた手際のよいストーリー展開にあります。一九年間もご無沙汰のままになっていたふるさとへの帰郷という心のおののき、アメリカに永く住んでいて、父母や弟や妹たちのことをまったく知らないことへの不安、「アメリカでは無名で、多くのヘボ文士の一人」にすぎないという事実からくる引っ込み思案。それからくる混乱と怖れが、昔と少しも変わらないカルニオーラの自然や、「帰郷歓迎! わが同胞の誉れ、著名なる訪問者」としての盛大なる歓迎や、家族の者たちが示した心からの喜びによって、霧が晴れるように消え、緊張感と安堵感が巧みに織りまぜられて、次なるストーリーへの期待を強めています。

とくに、「アメリカンカ」としてのステーラ夫人の存在はそのことを際立たせるのに大いに役立っています。言葉の障壁にもかかわらず、みんなはステーラにやさしく親しく接し、ステーラもまたそのように振舞います。母親は彼女を「スタイラー」と呼び、アダミックは「母のそういう口調が好きになった」と語る部分には、何ともいえない、ほのぼのとしたものを感じとることができるでしょう。

このほかにも、カルニオーラ語の独特な言いまわし、アメリカへ渡航していったスロヴェニア人移民の永い歴史と彼らのアメリカへの貢献度、シンクレア・ルイスをはじめその他の作家に対する旺盛な知識欲に見られるスロヴェニア人の教養や文化度などについて、非常に多くの補足的な事実のコメントが語られる一方で、アメリカに起こった大恐慌の影響と衝撃、それが田舎の農民たちに与えている経済危機、そして、アレクサンダル国王独裁のベオグラード政権に対して絶えず潜行する不吉な語りが、のちに展開する暗くて重々しいストーリーへの予感を孕ませて、文章にある種の緊張感を与え、読者はますます作者の語りのなかに吸い込まれていくのです。

説明的な部分になると会話が用意されているのも、この旅行記を読者と協力して分かち合おうとした作者の意図でしょう。家族のことについて、ステーラのこんな感想などは、その一つです。「ほんとに信じられないわ。ここにあなたの家族がいるってことが。武勇伝だって書ける家族じゃないの。……一四のあなたをアメリカに送り出したくらいだから、みんな冷たい人たちじゃないかって思っていたのに、でもいま、やっとわかったわ。あなたのことを心から愛しているのが。アメリカへ行くのだって、ちょっと変わったことだったかもしれないけれど、ごく自然な運命として受け入れたのよね。長いあいだ音信不通になっていても、あなたを思う気持は変わらずにあったんだわ。素晴らしいことね。」 このステーラの語りで、作者も家族も、そして読者もほっと救われるのです。

風景、建物、民族衣裳、風俗習慣が、力強く素朴なタッチで淡々と文章のそこここに散りばめてあるのも素敵です。ですから、読者は、一見、突拍子もない「マトヤッチ王の伝説が生まれるところ」の寓話の部分に差しかかっても、不自然さを感じないでいられます。アダミックはここで、ふつうの農民たちの救世主願望を語りながら、自分自身やグッゲンハイム氏やアメリカについて述べ、「素晴らしき『約束の土地』として、ヨーロッパの農民のあいだにいまなお、アメリカ神話が生きていることを知ることができる」と、同時代的な論評をちょっと加えることも忘れていません。

アダミックは、第一部で、自分自身が祖国によってすっかり捕捉されたように、読者にも捉えられることのここち良さを与えます。そのうえで、そこで築いたいくつかの同心円の輪の核を縦横無尽に用いながら、ユーゴスラヴィア縦断の旅へとつながる第二部以降に入っていきます。舞台はスロヴェニアと明らかに違ってはいますが、また同じでもあるという小さなコメントからはじまります。単なる旅行譚、歴史探訪、大勢の人たちとの出会い〈地理的な違いや、事件や、有名無名の個人によって語りに立体感が与えられています〉、政治批判などが、あるときは個人的に、またある場面では叙述的に語られています。文章タッチも、とりとめもない調子、感傷的な調子、激情を抑えた決断たる調子と、さまざまに変化しながら記録していくのです。

良書をよりいっそう良書として味わい深く読むには、説明的な論評でなく、たとえばマトヤッチ王の口承伝説、モンテネグロのニキタ王の伝記、コソヴォの叙事詩、クロアチアの救世主として闘ったステファン・ラディッチの物語、ベオグラードの独裁政権に抵抗して生きる多くの農民、労働者、学生たちの具体的で詳細な記述を通して、それらの人ひどとともに窮状を訴え、憤りを共有し、さらに、アダミックがユーゴスラヴィアやこの国の人びとについて俯瞰して見せたように、一九三〇年代初めのこの国が「地図の上とわれわれの世界の政治における戦略上の重要な地位を独占している偉大な一民族の強力な社会的複合体」であったことを念頭におくこと、そういうことどもに注意を払うべきでしょう。

本書の迫力とその性格上の特徴は、この作品が出版されたあとに起こったさまざまな反応、アダミックが帰郷後、祖国についてあらゆることを書いたり、語ったりした以上に多くの反応が起こるべきして起こった点に端的にあらわれています。それについて関心のある向きは、アダミックの『私のアメリカ』My America 1928-38(一九三八年刊)や、ユーゴスラヴィア系アメリカ人たちが好意を寄せていた英語やユーゴスラヴィアの数カ国語で書かれた学術的な論文、さらには、ある若いコミュニストによって書かれたアダミックによる翻訳書『苦闘』Struggle(一九三四年刊)、あるいは本書をめぐるユーゴスラヴィアでの検閲(禁書になった)の問題、果ては、本書がアダミックを最期までユーゴスラヴィア問題に関心を寄せる作家とならしめたことなどに注目されるといいでしょう。本書の持つ力強さの一つは、この作品の新鮮さと時代を超えた真実を語りきったところにありました。

最も個人的なレベルでは、私はユーゴスラヴィアを講演旅行中に、この解説を日本から依頼されたわけですが、あらためてこの国を見ると、アダミックの語りがいまだに真実を失っていなことに気づかされたのでした。自然、風景、村落、丘の上の教会、それらはいまでもそこに在り、そこに属しているように見えます。古都リュブリャーナの旧市街からは、アダミックの言葉通りの感動を受けます。彼の実弟、フランツ・アダミッチ教授はいまでも男前で矍鑠としています。私のブラト村訪問は四度目でしたが、アダミッチの生家は、当時と比べ二倍の大きさになっていました。

さらに一般的なレベルでは、スロヴェニアやユーゴスラヴィアの他の地方は、「永い苛酷な歴史を背負った、将来の行方定まらない種々雑多な人びと」と語ったアダミックの言葉通りの真実がいまでも生きています。一九八九年、東欧および南東欧には歴史的動乱の秋がはじまりました。世界は「経済危機」の言葉を再びその地に聞くようになりました。そこで私たちはThe Native’s Returnをき、半世紀以上も前のアダミックの言葉に耳を傾けることができます。「サライェヴォの知識人たちの多くは、ユーゴスラヴィアの他の地方の人びとと同様に、巨大な暴力の前に挫折させられ、行方定まらない、どっちつかずの宙ぶらりんの状況に押し込められていた」のを知るのです。また、私たちは、最近採用されたスロヴェニア共和国とそこに住む人びとの悲願の象徴が、いつの日かマトヤッチ王を目覚めさせるためにクリスマスの夜に一時間だけ咲き誇るという、あの菩提樹の青葉になった、という事実にも驚かされます。

本書はこうして、民族・経済・政治・文化・歴史とさまざまな要素でもって構成されていますが、最終的には、この作品のいたるところに散りばめられ、あらゆる読者の心に重要な意味を持って訴えてくる要素、国家とか場所とかいう枠をとり払って地球人に共通する普遍的な核心があります。それはほかでもありません、The Native’s Return(帰郷)の持つ意味です。人はいろんな理由で、いずれは生まれ育った家を離れます。新天地にはまた別な生活があり別な人生が待っています。それでも人はいつの日か、長い年月を経て、少なくとも一度は生まれ故郷に帰り、あるいは一九九三年からであろうと、旧い「台所用具」に気づき、「ここで……ぼくはノートや鉛筆を……ロールパンやりんごを買ったものだった。……ここには母がいつも買物にやってきていた」ことを思い出し、同時に、「あらゆるものが私の心に蘇ってきた」と、深い感慨をおぼえるにちがいありません。つまり、このことこそ、私たちがこの本から得られる最大の恩恵なのです。

ルイス・アダミックのThe Native’s Returnは、一九三四年にニューヨークのハーパー・ブラザーズ社とロンドンのビクター・ゴランツ社から出版されました。海外版としては、ストックホルムでスウェーデン語の翻訳が、ユーゴスラヴィアでは一九六二年に、ミラ・ミヘリッチ訳によるスロヴェニア語版が出されています。そして今回、初版から五六年目にして日本語版が出版されることになったのは、ルイス・アダミックを愛してやまない私にとって、誠に感慨深いものがあります。

一九八九年晩秋

ユーゴスラヴィア・ザグレブ市、カナダ・トロント市、スロヴェニア・
リュブリャーナ市、アメリカ合衆国ニュージャージー州ミルバーン市にて

(ラトガーズ大学教授)


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動乱のバルカンを旅する-全米ベストセラー作品 (電子書籍)
The Native'sReturn by Louis AdamicTranslation by Shouzou Tahara
WriterCopyright © Shouzou Tahara

About the Author: ルイス・アダミック著 田原正三訳