2011年11月23日水曜日

改訂新版『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々--アメリカ移民 ユーゴ・ルポルタージュ』 ルイス・アダミック著 翻訳掲載

改訂新版 
『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々--アメリカ移民 ユーゴ・ルポルタージュ』

ルイス・アダミック著
田原 正三訳

THE NATIVE’S RETURN by Louis Adamic

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改訂新版 
『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々--アメリカ移民 ユーゴ・ルポルタージュ--


第一部 帰りなん カルニオーラへ

 一九年後

一九三二年の早春、一年間のヨーロッパ行きを認めるグッゲンハイム財団フェローシップを受けたとき、私は三三歳で、アメリカへ来てすでに一九年が経っていた。一四歳のとき、私はほんの形ばかりの「都会教育」を受けた農民の子として、カルニオーラからアメリカに移住していた。当事のカルニオーラは、オーストリア領スロヴェニアとして小さな州であったが、いまではもっと小さな、新興国ユーゴスラヴィアの州の一部になっている。

この一九年の歳月は、私をアメリカ人にした。よく私は自分のことを、知人の大部分のアメリカ生まれの人たちよりも、もっとアメリカ人らしいアメリカ人だと思っていた。私は熱狂的といっていいくらいに、ひたすらアメリカの光景に惹かれてきた。この国のさまざまな社会運動、思潮、個性に、また技術的な進歩や、社会、経済、政治的な問題に、さらにはこの新世界が繰り広げる凄まじいまでのドラマに関心を注ぎ続けてきた。

アメリカの国外で起こる事件や出来事については、通りいっぺんの関心を抱くだけで、それもアメリカに関係し、あるいは影響を与えるものに限ってのことだった。私は英語で読み、英語で書き、英語で話した。アメリカへ来て一六年間というもの、同胞の移民たちとの身近かな付き合いはなかった。残りの三年間は、アメリカ軍の兵士であった。世界大戦が終わってからは、アメリカ大陸の優に半分以上を彷徨い歩き、さらにハワイ、フィリピン、ラテンアメリカ各地にまで足を伸ばした。ここ数年前からは、アメリカの作家となり、アメリカの読者に対して、アメリカの問題について書いてきた。そして、アメリカ人女性と結婚した。

  妻のステーラには、私の故郷での幼年時代について、ほんの二、三の事実しか話していなかった。それで両親のこと、村のこと、そして生まれた家などについては、彼女には想像すべくもなかったろう。彼女は私の話すことなど、何ひとつ信じようとしなかった。彼女からすれば、私は頭のてっぺんから足の爪先までアメリカ人だったのだ。

  私たちがヨーロッパへ旅立とうとしていた四月初めのある日、ステーラはこう言った。

  「もちろん、カルニオーラのふるさとにも行くわよね」
彼女はそうするのが当然と言わんばかりだった。
  「もちろんさ、」と、私は答え、もう一度、「もちろん」と小さく繰り返してから、こうつけ加えた。
  「ほんのちょっと立ち寄るだけだよ」
ステーラは言った。 
「そうだわ、あなた、向こうに、カルニオーラ――なんて素敵な響きなんでしょう――に、家族がいるって話してたでしょ。いまはどうしてるんでしょうね、知りたいとは思わない?」
「そりゃ知りたいさ」と、私は言ったものの、正直なところ、そうした会話を続けるのがひどく億劫だった。
  そんなことがあったけれど、私は故郷のわが家へ、スロヴェニア語が話せないアメリカ人の妻を連れて、できれば五月一五日の午後には帰りたいと手紙を書いた。私たちの乗船する船が、トリエステ港に一四日に到着予定になっていたので、何をおいてもまず帰郷しようという気になったのだ。それからすぐに、イタリアかオーストリアのどこか山間(あい)の村を見つけて、アメリカについての新しい本の執筆にとりかかりたかった。



三週間後、船が大西洋の半ばに差しかかったころ、私はステーラに言った。
「こんどの帰郷は、どうなることか不安だよ」
「やっぱり気になっていたのね。いったいどうしたの?」
「そうだなあ」と、私は説明をはじめた。「家を出たのは、ほんのつい昨日のように思えるけど、実際はずっと昔のことになってしまった。あのころのぼくはまだ少年だったし、そのときと比べて、だいぶ変わったと思うよ、根本的にね。ぼくの感情も知的な生活もすべて、アメリカに根ざしているように思えるんだ。ぼくはアメリカに住んでるしね。ともかく、故郷は一〇〇万マイルも離れた別な惑星にあるようなものだし、そこにぼくの家族は住んでいるんだから」
  ステーラは、わかるわ、といった面持ちで聞いていた。
「もちろん、家を出る前の両親のことはおぼえているけれど、もういまでは二人の記憶もぼんやりしたものになっている。この一九年間というもの、ヨーロッパはあらゆる人たちにとって激動の時代であったし、それがいきなりぼくの心に押し入ってきたことで。親爺たちだって変わったさ。単に年をとったというだけでなく、性格だって変わったにちがいないよ。そのことが家族とぼくを疎遠なものにしたと思うんだ。

  カルニオーラには四人の弟と五人の妹がいる。一九年前は、そのうち七人がすでに生まれていた。あとの二人はその後生まれた子で、名前はヨゼとアニカというんだが、もちろんぼくは会ったことがない。それにもう、二人とも一七と一五だ。上の七人は、ぼくがアメリカに行った一九一三年までには生まれていたから、かすかにおぼえている。ぼくは長男で一四、ぼくの上に三人いたけど、みんな死んでしまっていた。長女のトンチカが一三だった。次男のスタンは一〇歳。一番下の弟、フランツは一歳とちょっとだった。いま、あいつも二一くらいになってるだろう。トンチカは三二になり、結婚して二人の子もちだよ。もうひとりの妹ミミは、ぼくが家を出たときは四つだったけれど、もう二三になり、ある慈善施設で働いている。改名してマヌエラというらしい。なぜ尼さんなんかになったのか、ぼくにはわからない。それから弟のアンテ、妹のパウラとポルダカ、かろうじて名前だけしか記憶にない。思い出すだけでも一苦労なんだ。でもともかく、ここまできたからには行くよりほかにないね」
「ほんとに面白くなりそうだわ」と、ステーラが言った。
「まったく、どうなることやら」と、私は答えた。
「ここ一五年間というもの、家族との手紙のやりとりもだんだん少なくなっていた。アメリカが参戦して二年間は手紙を書けなかった。ぼくはアメリカ軍に入っていたし、おたがい敵どうしだったしね。戦争が終わって二、三年しても誰にも書く気にはなれなかった。ようやく書く気になったのは、ここ八、九年のことだよ。それも半年に一度、当方は元気でやっております、みなさんもお身体を大切に、といった程度の短い走り書きを送るだけだった。それ以上は書けないよ。第一、アメリカやぼく自身についてどう書けばいいっていうんだ。アメリカについて、ぼくが思ってること、なんて素晴らしく、もの凄いところだとか、ここほどぼくの心を惹きつけ、胸躍らせるところはほかにはない、といったようなこと書けると思う? そんなことを書いてやったら、向こうは勝手に解釈し、とんでもない誤解をするにきまっている。それにいちいち説明を書いて送るなんてことはできゃしないし、だから、ぼくは書かなかったんだ。――どんなふうにとられるかわかったものじゃないからね。結局、みんなはアメリカとぼく自身のことについて、まったくといっていいほど知らないのも同然だった。アメリカのことを知るには、長い間そこに暮らしてみなきゃわからないしね。もし、ぼくが下手なことを書いてやったら、弟や妹たちはアメリカに興味を持ち、そのうちの誰かがはるばるやって来たかもしれないし、ぼくはそれが嫌だったんだ。苦労はぼく一人で十分だからね。それに、アメリカで生活するよりも、カルニオーラのほうがある意味では暮らし向きはいいかもしれない。……もうひとつの理由は、最近になってようやく、母国語のスロヴェニア語でごく平凡な事がらを表現できるようになった、ということなんだ。それでもスロヴェニア語で、たとえば、アメリカでのぼくの生活の複雑なことについて、書くことはまだできなかった。

「もちろん、家の者は、ぼくがアメリカで耐えて生きているってことや、手紙をちっともよこさないことについて、理解できなかった。みんな、農民らしい辛抱強さと農民としての誇りでもって、わけのわからない手紙をよこした。でも、それはぼくの手紙とそうたいして変わらなかったよ。母や妹や弟たちは、いつもおきまりのように、お手紙ありがとう、私たちもみんな元気でやっております、といった内容だった。たまに、トンチカが結婚した、とか、スタンとアンテは入隊しなければならなくなった、とか、ミミは尼さんになった、といったことだけで、それ以上のものじゃなかった。

「だから、想像だってつかない。経済的に家族の暮らしがどうなっているのか、皆目見当もつかないんだ。ぼくが村を去って、アメリカへ渡ったころは、父は村でも裕福な農夫だった。でも、いま、アメリカの新聞を信じるかぎりでは、ヨーロッパ全土は悪い状況に向かって進んでいるっていうし、家族の者がどうなっているかわからないんだよ。だから君は、ぼくが〝アメリカ帰り〟だっていうことを心にとめておくんだね。みんな、アメリカから帰るっていうだけで、たくさんのお金を稼いで、家族の生計を助けてくれることになっているんだ。ぼくの手持ちのお金ときたら、すべてグッゲンハイム財団からの支給されたものだし、君とぼくが一年間ヨーロッパに滞在するにはぎりぎりなんだ!」
しかし、ステーラは楽観的だった。
「あなたが考えているほど、そんなに心配しなくていいかもよ。それより、みなさん、あなたが一九年間も離れて暮らしたことや、こんな女と結婚したことが心配じゃないかしら。そう考えれば、おたがい様じゃないの」
「そうかもしれないね」
私はそう答えるよりほかなかった。      

         3


私たちの乗った船は、リスボン、ジブラルタル、カンヌ、ナポリ、そしてシチリアのパレルモにと寄港した。カンヌを除く、それぞれの寄港地では、下船したとたん、「ギミー! ギミー!」と叫び、腹ペコだ、何か食べものをくれ、と身ぶり手ぶりで駆け寄る、ボロをまとった一群の少年たちに取り囲まれた。

  通りでは、とくにリスボンでは、腕に赤ん坊を抱いた母親たちがそばに寄ってきて、子どもが飢え死にしそうだ、と沈痛な顔つきで訴えた。もちろん、彼女らのほとんどは物乞いを職とするプロであった。

「ユーゴスラヴィアではもっとひどくなっているかもしれない」と、私は呟いた。

  五月一三日、船は、かつてはオーストリア領であり、いまではユーゴスラヴィアの一部となっているダルマチア沿岸にそって航海をはじめた。沿岸づたいにくり広げられていく小さな島々や燦燦と輝く小さな町々の光景を眺めているうち、なぜだかわからないが、次第に気分が楽になっていくのをおぼえた。たぶん、沿岸にそって並ぶ小高い山並みが、私がかつて数年のあいだ住んだことのある、南カリフォルニアのサンペドロからサンディエゴにいたる風景に似ていたからだと思う。また、陽光ふりそそぐアドリア海が、地中海よりもさらに青く、私にはいっそう美しく見えたからにちがいない。

船はゆっくりとドブロブニク、いや、ラグーザの港に近づいていくと、そこには信じられないような、素晴らしい光景が眼前に開けた。
  「まるで劇場の舞台のようだわ」と、ステーラは感嘆した。
  すると、隣にいたもう一人のアメリカ人女性が、甲板の手すりにもたれながら言った。
「いまにも役者の一団があらわれて、歌いだしそうね。♪俺たち、陽気な村人は……って」

そこでは三時間の停泊だった。ステーラと私は船を下りた。乞食の群れはいなかった。埠頭では何人かの少年たちがいた。リスボンやパレルモでのようにボロをまとってはいたが、飢えや病気に悩まされているようには見えなかった。彼らは、口をでっかく開けて、にやりと笑った。白い丈夫な歯が、日差しなかできらっと光った。肌は茶褐色で、ほつれた黒い髪が、青い瞳の前に垂れさがっていた。

少年の一人にステーラは金貨(コイン)を差し出した。少年はびっくりして睨みつけた。
「ザストゥ?(なんのつもりだ?)」
「いや、この女(ひと)は、きみに金貨(コイン)をあげたかったんだよ」
  私は少年に、クロアチア語で説明した。驚いたことに、突然、なんの抵抗もなく口をついて出た。少年は顔をしかめ、そして、「ハバラ・リエパ!(ありがとう!)施しじゃないんだね」と言った。それからふっと、何かが頭に閃いたにちがいない。日焼けした幼い顔がかがやいた。
  「もし、あんたと、このご婦人が親切で気前がよければ」と、にやりと笑い、「できたら、アメリカのタバコをいただけないか、一服ためしにやってみたいんだ」と言った。

少年は数本のタバコを手にすると、目と口をいっぱいに開いて、何ともいえない笑顔のなかにくずれた。「ハバラ・リエパ!」と叫び、走り去る少年のあとを、他の少年たちがキャーキャー叫びながら追っていった。
私は晴ればれとした気分に浸った。
 「わが祖国よ!」私は心の中で呟いた。
「施しじゃないんだね、だって」
私は、わんぱく坊主のあとを追い、思いきり抱きしめてやりたかった。
「わが祖国よ!」私は声高らかに言った。
ステーラは笑っていた。二人して笑った。

私たちは、日が燦燦とあふれ、日影の濃い、ドゥブロブニクの古びた街路を歩いた。その街の歴史は五世紀にまで溯るものだった。それほど広くはない中央通りを突き抜けて、いくつもの曲がりくねった階段が急勾配をなして、山の斜面に昇りつめていた。往き交う人びとの何人かは明らかに外国人だった。オーストリア、チェコスロバキア、ドイツ、フランス、イギリスからやってきた観光客や旅行者なのだろう。その他ほとんどの人は、年寄りから若者にいたるまで、鮮やかなホームスパンの民族衣裳を身にまとった生粋のダルマチア人か、そうでなければ、爪先の尖ったセルビア風のサンダル「オパンケ」を履き、ダブついたバギーに締まったジャケットを着た、赤いトルコ帽のセルビア人労働者であったりした。彼らは、近隣のボスニアやヘルツェゴヴィナからやってきている回教徒であった。顔にベールをかけて歩いている回教徒の婦人がいるかと思えば、二人のカトリック教徒の尼僧に出喰わしたりした。家の戸口では、母親たちが座ったまま、赤ん坊に乳をあたえていた。そして、どこへ行っても、子どもたちでいっぱいだった。

「ほら、あの顔見て!」と、ステーラは何度も叫んだ。
「野暮ったい顔だけど、素敵だわ。褐色の肌って、とても健康的ね」

ドゥブロブニクでは、リスボンやジブラルタル、ナポリ、パレルモなどと違って、むりやり物を売りつける者もいなかった。ここでは言い寄るガイドも、胡散臭い目つきで卑猥な写真を売りつける男もいなかった。小さなバザールはがらんとして、農民たちの手づくりの刺繍や宝石細工や陶器を並べた店頭では、売り子たちが表面上は、客が商品を買っても買わなくてもどうでもいいといった風情で、仲間同士、雑談をしながら笑っていた。露台の向こうで、じっと腰かけたまま、暖かい日だまりのなかでうとうとしている者もいた。

埠頭に戻る途中、急勾配の石段を下りて行くと、私たちは一人の若い娘に出会った。黒い髪に、青い目、背の高いみごとなプロポーションの肢体には、色とりどりの織布で編んだ南ダルマチア地方の衣裳のなかでもとりわけ際立った色彩を放つラグーザの衣裳がからまっていた。頭の上には大きな籠をのせていて、それは彼女の一部のように見えた。たぶん洗濯物でも入っているのだろう。その姿は、古い街並みに映えて立つモダンな像といった感じだった。彼女はお尻をゆすりながら歩いてきた。腕まくりした素肌の腕は引き締まり、片方はピンと肘を張り、もう一方はキングサリの花束を抱えていた。

  前方の私たちを認めたのだろう。彼女の歩調は急にゆっくりしたものになった。きっとステーラのアメリカン・ドレスに興味を持ったにちがいない。
「ドバール・ドン!(こんにちは!)」と、私が声をかけると、
「ドバール・ドン!」と彼女は応じ、にっこり微笑んで立ちどまり、こう言った。
「お国(ナシュキ)はどちらですか?」
「スロヴェニアで生まれたけど、若いころアメリカへ渡ってね。ワイフはアメリカ人だよ」
「まあ、そうですの」
  彼女は興味ぶかそうに言った。
「わたしの叔父もアメリカにいるんです。あの大きなミィ・シィ・シィ・ピィ・河」と、音節を一つひとつ区切って発音しながら、「その河が海にそそいでいるあたりの、ルイジアナで漁師をしているんです」  

「この娘(こ)、きれいね。すっごいボリュームだこと!」と、ステーラが言った。
私はそれをその娘に訳した。
「ワイフは、きみが美しくて、素晴らしいプロポーションをしているって言ったんだよ」
  娘の顔に笑顔がひろがり、頬から首のあたりがぽっと赤らんだ。
「ハバラ・リエパ! アメリカの奥様こそ、おきれいだっておっしゃってください」
  私は妻に訳した。娘は腕のなかのキングサリの花束から数本の小枝をステーラに渡すと、黙って階段をのぼっていった。

「このことなのよ、私がいつも素晴らしいことって言っているのは、」と、ステーラは娘のうしろ姿を振り返りながら、「ああいう素朴で純真な心のことなのよ」と言った。

  私はユーゴスラヴィアを、そしてこの国の人びとを、好きになれるかもしれないという気がした。祖国での滞在が、厳しい試練になる、というよりも楽しい体験になるだろうと、ふっと希望が沸いてきたのだ。


        4


一五時間後、土曜日の正午前に、船はトリエステの岸壁に横づけした。私たちが下船の準備をしていると、非常な丁寧さと礼儀正しさで圧倒せんばかりのスロヴェニア紳士が乗り込んできた。彼は私に会釈し、ステーラの手をとってキスをしたあと、いかにもかしこまったふうに、ぎくしゃくした言い方でこう告げたのである。

「私は、ドラフスカ州の総督から直接使わされて参上した者であります。イタリアとユーゴスラヴィア国境において、当方側の税関もしくは出入管理事務所の者たちが、ご貴殿と奥様のお荷物を妨害しご迷惑をお掛けしたのではあるまいかと、そういうことで参った次第です。ご貴殿方のドラフスカ州滞在に関しましては、私どもができうる範囲内で、ご満足いただけるよう最善を尽くしたいと願っておりますです。何かご用がございましたら、ご遠慮なく私にお申しつけください」
紳士はそう言うと、続けて二度も会釈した。
  「スロヴェニアは、ということはユーゴスラヴィア全体でもありますが、ご貴殿のご帰国に際しましては敬意を表し、大歓迎いたしておりますです」
  私はこの一六年間、スロヴェニア語をしゃべったことがなかったが、恐縮のあまりなんとか正しいスロヴェニア語でお礼を述べた。それから、ステーラに状況を説明した。彼女は目を丸くして言った。
「でも、どうして? あなたが作家だから?」
「そうだろうね」
「大きな世界に飛び込んでいった少年が、故郷に錦を飾ったってわけ!」
  私たちはおもわず笑ってしまった。当の紳士を見ると、彼も遠慮がちにだが笑っている。もちろん、英語がわかるわけではないから、お追従笑いにきまっている。私もあえて、私たちがどうして笑ったのか彼に説明はしなかった。たとえば、アメリカで出版した私の二冊の本について、どのように説明できただろう。国中の批評家や評論家に賞賛されたにもかかわらず、二冊の売れ行きは惨澹たるもので、私は無名の、永遠に出版の拒絶票を恐れて暮らしている多くのヘボ文士の一人にすぎず、しかもアメリカでは、作家たるものは自画自賛などはしないものであり、表向きは敬意をあらわす政府に対しても、どことなく胡散くさいものを感じていたからである。

  紳士は、書類鞄のなかから、スロヴェニアやその他ユーゴスラヴィアの地方で出されている、最近の新聞の束を取り出した。そこには私について、「あまねく知られた名声」とか「大偉業を成しとげた」という、いかにも大仰で、長ったらしい記事が載っていた。なかには短い社説を載せていて、こんなふうに結んでいる新聞も二、三あった。
  「帰国歓迎! わが同胞の誉れ、著名なる訪問者」――これすべて、大文字であった。
「ご高覧のように、」と、紳士は切り出した。
「国中が熱狂しておりますです。リュブリャーナの新聞記者たちは、いますぐにでもご貴殿にどうしても取材をするといってきかないのでありますが、とりあえずは、ご旅行のお疲れを癒したいでしょうし、その後は、ご帰郷もなさりたいかとも思いましたので、あの連中には、私の方からよく言い聞かせておきました。ご貴殿にお時間がいただけるまで、インタビューは差し控えるように申しつけておきましたです」
「いやはや、ご親切痛み入ります」
  私をインタビューするって! 一体、何についてだ? これまで私の人生で一度だってインタビューされたことはなかったのに。

  私は、なぜこんなことになってしまったのか、わからなかった。二冊の本は両親に送ってはいたが、そこから誇大宣伝めいた尾びれがついたとは思われない。時どき、故郷の知人からリュブリャーナの数紙に載った小さなコラムの切り抜きを送ってもらっていたが、それだって騒動の火元だとは思われなかった。

  そういえば、ニューヨークで船に乗り込む一週間ほど前、私に電話をくれた男がいた。相手は、ユーゴスラヴィアの新聞数社の特派員だと名乗り、こんどのヨーロッパ行きについて、あれこれ質問したあと、「ユーゴスラヴィアにも立ち寄るんですか」と聞いてきた。私は「そのつもりだ」と答えた。男は私の「アメリカでの経歴を追ってきた」とも語り、「ご帰国についてはちょっと紹介させてもらいます」と述べた。たしか、「小さな記事に」というニュアンスだった。それが、いま、私の目の前にあるリュブリャーナ、ザグレブ、ベオグラード、スプリット、サライェヴォ、その他国内の二、三の都市で出されている十数紙に、おどろおどろしい見出しがふられてのっている、中味のない記事の火元というわけだったのだ。
  私は嘆息した。こんな調子では、これから先、どんなことが待っているやら!


        5


  トリエステからリュブリャーナへ向かう、短い汽車の旅は、たのしい経験であった。とくに、イタリアとの国境線を横切って、故国に入ってからはなおさらだった。

  まさしく春爛漫の昼下がり。前の週から私の心にわだかまっていた不安の影はほとんど消し飛んでいた。一見したところ、カルニオーラは何ひとつ変わっていなかった。昔と同じように、いくつもの支流をもったサバ川が流れ、小さな湖がひらけ、小さな滝がしぶきを打っていた。同じように、こんもりと緑が繁る丘陵や山々があり、その山頂は雪をいただいていた。畑も草原も、村も教会もいまなおそこにあり、それらを取り囲む外壁には、農民の芸術家によって未完成のフラスコ画が描かれてあった。そして村人たちも、昔から少しも変わることなく汗水たらして働いていた。ゆっくりと、辛抱づよく、どことなく非能率的に(アメリカナイズされた私の目からすると)、原始的ともいえる農具を使って、地味ゆたかな土地を耕していた。世界大戦の折、最も激しい戦闘が数度にわたってカルニオーラの目と鼻の先で繰り広げられたにもかかわらず、そして、一九一八年のオーストリアからユーゴスラヴィアへ鞍替えした急激な政治的変動にもかかわらず、外の風に少しもゆらぐことなく、ふるさとは本来の姿を保ち続けていた。

  私はカルニオーラの自然が、これまで見てきたどんな世界のそれよりも美しいというつもりはない。私はアメリカにある、はるかに雄大な景観を知っている。しかしその自然は新興の力、人工的な家並みや町並み、屋外の宣伝広告や空き缶の山、廃棄された機械の残骸などによって台無しにされている。それに比べてカルニオーラでは、小さな村の素朴な農家の建築物ですら、周りの自然に溶け合い、土地の美しさをより引き立たせるようにして建っていた。家並みも村落も、すべてがおなじ土壌から派生してきたように、あるべきところに存在している感じなのだ。すべてが数百年にわたってそこにあり、森や湖や草原と調和して、息づいていた。一つひとつが全体を構成する大切な要素となり、おたがいが共振し合って、この土地に特徴ある形を与えていたのだ。

同じことは人びとにもいえた。農民たちはぬかるみで牛を追い、女や子どもや年寄りたちは色鮮やかな仕事着を着て、草原の中にしゃがみこんで雑草を刈り、そしていま、仕事の手をやすめて、汽車の中の私たちに向かってにこやかに手を振っている。川縁にいる少女たちは、裾のひらひらしたペチコートを着て、大きな岩の上に重たいホームスパンの布をたたきつけながら洗濯に余念がなかった。家の前では、元気な子どもたちが裸足で飛びまわっていた。彼らは、カルニオーラの風景と深く調和した反映物であり、私には永遠に解くことのできない、大切な、固有のものであるように思えた。

  私は帰ってきてよかった、と思った。カルニオーラの風景が胸に迫ってきたのは、それが美しいというだけでなく、そこがまさに私の祖国であったからだ。私は、線路沿いの農夫たちに向かって、大声で叫びたい衝動にかられた。

  汽車から見ているうちに、もうひとつ別な感慨に捕らわれた。カルニオーラがあまりに小さく見えたのだ。子どものころ、リュブリャーナからトリエステまで旅したことがあったけれど、あの時は長い長い道程だった。それがいま、滑稽にも「急行」と呼ばれているのろのろの列車に乗っても、わずか二、三時間の短い旅なのだ。汽車は数分ごとに村や小さな町に停車した。ふっと、名前だけはなんとか蘇ってきた。宏大なアメリカの距離感に馴れた私には、カルニオーラの土地は、昔と比べて一〇分の一にも縮まってしまったように思えた。カルニオーラ全体は、アメリカの大西部にある一つの牧場とか小さな国立公園からというより、オーストリアの一つの小さな州から縮こまっている印象だったのだ。

夕暮れ近く、汽車はリュブリャーナに到着した。想像していたよりもはるかに小さな街だった。人口だって七万五〇〇〇人にすぎないという。やはり、私の背後にニューヨーク、ロサンゼルス、カンザスシティ、シカゴといった巨大都市のイメージがちらついていたからであろう。
  そのまま、故郷の村へ行くこともできたが、あの総督の代理と称した紳士が手配してくれていたホテルに入った。 
夕食後、ステーラは床に入ったが、私は眠れなかった。
  私は外に出た。薄暗い、しんと静まりかえった、人影もまばらな街路を夜更けすぎまで歩いた。そして、なにより嬉しかったことは、リュブリャーナは本質的に昔となんら変わってはいないことだった。

  たしかに、古代ローマの城壁は、私が記憶していたよりもいくぶん崩れかかっているように見えた。街の中央には、一二階建ての高層ビルが建築中だった。しかし、リュブリャニツカ川には昔とおなじ橋が架かり、丘を見上げると、九〇〇年も前に造られた城砦と城郭が、闇のなかに浮かび上がっていた。同じく古い建物の市庁舎も昔のままだった。その前の広場には元々、オーストリア皇帝でハンガリー国王でもあったフランツ・ヨーゼフ一世の銅像が建っていたが、いまではそれに代わって、セルビアの故ペータル王の新しい像が建っていた。古い教会、作家や法学者、音楽家、雄弁家、詩人たちの記念碑があり、戸口の上にすすけた看板をかかげた商店も軒を並べていた。私が高等中学校(ギムナジウム)に通っていた一二、三のころ、ここでいつも鉛筆やノートを買ったり、昼食のためにロールパンやりんごを買ったり、たまにチョコレートやケーキを買ったりしたものだった。二〇〇年の古い歴史をもつ本屋さんには、私の本も置かれてあった。また、二週間に一度、母がここにやってきていた。「きっと、いまでもそうしているにちがいない」と、心の中で呟いた。それから、私の通った学校があり、二年間住んだ寄宿舎があった。初めてシェークスピアを観たのもこの街の劇場であった。あらゆることが記憶の底から蘇ってくる。もはやリュブリャーナは、私の人生には欠くことのできない、重要な場所であった。

  年老いた掃除夫たちが、樺の木でつくった長い箒を手にして、昔とまったく変わらないやり方で夜の通りを掃いていた。点灯夫が、街灯の高い柱にのぼって、明かりを灯していた。そして寸手のところで、黒い小男にぶつかりそうになった。煙突掃除夫だ! 私はおもわずコートのボタンを握りしめた。煙突掃除夫に出遭ったとき、ボタンを握ると幸運がおとずれるという、子どものころの迷信が無意識の襞に蘇ったからだ。

  カーテンが引かれた古びたコーヒーハウスの窓越しから明かりが漏れていた。私は中に入ってコーヒーを注文した。テーブルのほうに目をやると、ちょうど一九年前のように、新聞をひろげたり、チェスやドミノをしたり、低い声でぼそぼそ話し合っている人たちでいっぱいだった。そこはいたって平静だった。少なくとも私にはそのように思われた。

  私は、内心、深い高揚感と満足感をおぼえながら、ホテルに戻った。


        6


疲れていたけれど、夜明けまで寝つけなかった。ぴーんと張りつめた緊張感が体にからみつき、頭の中では、いろんな思い出が走馬灯のように回り続け、明日のことを思って、心は高鳴った。……母は、いったいどんな顔をしていただろうか? 突然、そんな思いにとらわれた。家を出たとき、母はまだ若かった。

  「どちらかというと背の高い」と、私は一九三一年に発表した自伝的な物語『ジャングルの中の笑い』で、母の面影を描いていた。

  「ゆったりしたバストと大きなお尻。長い腕と仕事向きの大きな手。広くて日焼けし、歳月で皺のよったスラブ女の顔。まるくて、大きな、焦点の定まらない目。その目はいつもおだやかに、無邪気に、いたずらっぽく輝いている。そして、サラサラと波うつ房のとび色の髪が、あごの下で結ばれた、色鮮やかなネッカチーフの間からこぼれていた」

  母は五〇の後半であった。一三人の子どもを産み、一〇人を育て、休みなく働き続けてきた。そして、父は? 八〇を過ぎていた。……家は? 六〇〇年前に建てられたままの古さだった。屋根を葺きかえたことを除けば、私が育ったころとちっとも変わっていないにちがいない。

  朝になり、私たちはホテルの階段を下りていった。がらんとしたロビーの真ん中に、背の高い二人の若者を見た。二人ともすぐにはこちらに気づかなかった。一人はロビーのあたりを行ったり来たりしていた。もう一人は猛烈にタバコを吹かしていた。
「あら、弟さんたちじゃないかしら!」
ステーラが息をはずませて言った。私たちは、階段の途中で足を止めた。
「ほんと、あなたにそっくりよ!二人ともハンサムだけど、なんてハンサムなこと!」

少年たちがこちらを見た。青銅色の広い顔がかがやき、大きな白い歯がにやりと笑った。二人は駆け寄り、私も急いで階段を下りたので、最下段のあたりでぶつかりそうになった。握手しながら笑い出した。ステーラも近づいてきた。しばらくの間、私たちは口をきくことも忘れ、ただ笑っているだけだった。

  弟たち、フランツとヨゼは、高等中学校(ギムナジウム)の学生だった。昔の私の場合とちがって、リュブリャーナに下宿することなく、毎日汽車で通学していた。一見、垢抜けしたように見えるけれど、じつは根っからの農夫であった。逞しく、健康で、バイタリィティにあふれ、二人ともでっかい手をしていた。二人を代わるがわる見ていると、妙に頼もしい気分になってきた。若いころの私が目の前にいるような錯覚にとらわれたからだ。ステーラも私も二人から目を離すことができなかった。二人はドイツ語とフランス語をほんの少しだけしゃべれたので、ステーラとはなんとか意思は通じていたが、でも、感激のあまり、お互いうまく話せないふうだった。

  ようやくのことで、二人は、母から言われて私たちを迎えにきたことがわかった。私たちを朝一番の汽車に乗せて、午後には家に着けるように手伝いなさい、と言われてきたのだ。

  フランツはこんなふうに村のことを説明してくれた。
  「村じゅうが、ほんとに谷間じゅうが、大騒ぎだよ。このところ、俺たちの郡の一七の村やそのほかのところでも、兄さんの噂でもちきりなんだ。新聞の売れ行きも一〇〇倍になったっていうし、みんな、兄さんのことを読んで、会いたがっているんだ。だって、アメリカンカと結婚したのは、谷間じゃ兄さんが初めてだからね。家はもうてんやわんやだよ。ここんとこ、だれもぐっすり眠った者はいないよ。母ちゃんも、パウラも、ポルダカも、みんないっしょの部屋で寝てんだけど、ほとんど眠ってなんかいないんだよ。兄さんのことをあれこれ想像したり、どんなふうに変わったか話したりしてたよ。ゆうべなんか、〝放蕩息子〟の帰郷を祝って、いちばんいい子牛を殺すことを話したりしてたよ。でも、まだ子牛だし、生まれて二週間しかたっていないし、体つきも貧弱だから、もう少したったら聖書に書いている重さになるっていうから、それまで待つことに決めたんだ」
私は何度も笑ったが、フランツの乱暴な言葉を、ニューヨーク生まれのステーラに説明することはできなかった。

  次第に、私はこんなふうに思うようになった。この十九年のあいだアメリカで生活してきた私が家族の者を思うより、故郷の家族のほうが私のことを思っていてくれたのではないだろうか、と。私はアメリカでの熱狂的な生活に埋没し、家族や祖国に対して、ほとんど思いをいたさないできた。それに比べ、みんなにとっての私は、一四歳でちっぽけなカルニオーラを飛び出し、広い世界へ冒険に出た、こわいもの知らずのマルコ・ポーロであった。そして、長い航海の末に、ようやく故国に帰ってきたのだ。新聞では、私は新世界で大物になっていたし、名士になっていた。私は、知られざる小宇宙カルニオーラに、名声をもたらしたのだ! と。

  故郷へ向かう汽車の中で、ステーラと私はこれについて話した。
「ほんとに面白いわ!」と、ステーラが言った。
  「突然、小さな池で、でっかい蛙になったってわけさ!」と、私は言った。

故郷の村の、ひとつ手前の村にある小さな停車場は、私の記憶しているものよりはるかに小さく見えたが、大ぜいの村人たちでごったがえしていた。初老の農夫、女たち、若い男女、子どもたち、ひとり残らず晴れ着をまとって、なかにはこの地方特有の民族衣裳を身につけた少女たちもいた。くすくす笑っている少女たちを除けば、残りの人びとはみな押し黙ったまま、こちらを見ていた。ほとんど知らない顔ばかりであったが、二、三かすかに見おぼえのある顔もあった。
それはなんともいえず、気分のよい、そして胸に迫る瞬間だった。
  汽車を降りると、あっちこっちから指で体をつつくようにして手が差し出された。一人の青年が叫んだ。
  「ポズドラヴレン!(お帰り!) 俺、おぼえてる?」
  私はおぼえていた。私たちが笑い出すと、周りにも笑いのざわめきはひろがっていった。
  人ごみの中から、二人の瓜ふたつの顔立ちをした若者が進み出た。二人はフランツやヨゼよりも年長で、背丈もすこし高かった。その一人はとびきしハンサムで、ステーラはうれしさのあまり黄色い声をあげた。
「スタンです」
握手をしながら言ったのは、一番上の弟だった。にやにや笑っている。ばかでかい手と眼差しには、強い男の優しさがあった。
「俺、アンテ」
  もう一人も、にこやかに歯を見せながら言った。兄弟のうちで一番顔立ちがよいと思われるこの弟にも、街のにおいはなく、世間ずれしていない農夫の質朴さがただよっていた。
  それから、兄弟五人全員とステーラもいちどきに笑った。それにつられて、周りの人たちもどっと笑った。
「親爺やおふくろや妹たちは?」
「家だよ、みんな」と、スタンが答えた。
そして、またしてもみんなで笑った。そのあと、野原や畑を抜けてわが家に向かった。うしろからは、子どもたちや犬たちがぞろぞろついてきた。谷間はあまりにも小さく見えたけれど、美しさに変わりはなかった。春はおそく、いま、草や花はようやく芽を吹き出そうとしていた。きらきら輝く緑の草原には、黄色のきんぽうげや紫色のクローバーの上を、蜜蜂が羽音をたてながら飛び交っていた。水路沿いには忘れな草がこぼれんばかりに群生し、はしばみ色の薮の木陰には、無数の百合の花が咲いていた。

  一瞬、谷間にあるすべてのものが、やわらかに私の体内に忍び込んでくるのを感じて、私は胸が熱くなるのをおぼえた。

  わが村、ブラトには、また小さな集団が待っていた。見覚えのある顔も何人かそこにはあった。二、三の伯父、たくさんの伯母やいとこたち、なかにはわざわざ近くの村からやってきた人たちもいたが、彼らは昔ながらの心あたたまる如才無さで、すぐさまわが家へ連れて行ってくれた。

 
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   一九一三年に別れを告げたときと、同じ中庭の同じ場所に待っていた母の姿は、私の胸にぐさりと突き刺さった。母は年をとり、髪も白く薄くなっていて、目や頬のあたりの皺はいちだんと深まっていた。だが、その抱擁は昔とかわらず、しっかりと強かった。

  突然、私は母にめったに手紙を書かなかったことを、すまなく思った。それで、なにか母に言ってやりたかったが、誰がこんな瞬間に話すことができよう。母もまた黙ったままだった。そして、かすかに微笑みを浮かべながら、私を抱擁し、正面から私の両手をしっかり握ったまま、身体をかすかに左右にゆらし続けるばかりであった。

  父もまた白髪が進み、身体も縮んでいたが、ふるえる皺だらけの手は意外としっかりしていた。そして、笑顔で、「お前、やっと帰ってきたな、」と喜びをあらわした。

  さらに妹たちが待っていた。そのなかの四人は家の壁にもたれていた。
  「トンチカです」と、ベオグラードから里帰りしていた長女が言った。まるで若い寮母のように見えた。
  「パウラです」と、次女が言った。茶色の髪を頭のまわりに束にして結んでいて、そしてちょっと陰影のある表情をしていた。これはあとで知ったのだが、失恋の後遺症だった。さしずめ、「危機を孕んだ美しさ」とでもいおうか。
  「あたし、ポルダカ」三女。陽気で、あどけなさの残る顔の下には、民族衣裳が足元に流れ、背中には二本の太い、うす茶色の組み紐がぶら下がっていた。
  喜びを表情いっぱいあらわしながら、小声で、
  「あたし、とっても嬉しいわ!」と声をあげた。
「アニカ」末っ子。家族のなかの甘えん坊で、無口なはにかみ屋さんである。もちろん、私たちは初対面だった。

  階上のドアのところに尼さんが一人あらわれた。マヌエラと改名した妹のミミである。今日は除階式以来の一年ぶりの里帰りだとのこと。私は彼女に近寄り、握手だけですました。抱擁もキスもできないと、前もって聞かされたからだ。ミミはただ静かに微笑みを浮かべているだけで、あえていえば、聖母マリアの顔のようだった。広い糊付きのまっ白な頭飾りの下にかがやく青い瞳と、赤くほてった頬と、卵型のなめらかな肌をした顔を見ながら、私は、なぜ尼さんなんかになったのかわからなかった。

  私たちはみんなして、ぞろぞろと母屋に向かって歩いた。それは、父、祖父、曾祖父……と、何代まで溯るかわからないほど古い古い建物だった。ところどころ、修復の跡はあったが、全体は最初から変わることなくでんと建っていた。だが、エンパイア・ステート・ビルディングやグランド・セントラルのイメージからすれば、なんと小さい建物だろう。

  私は、母や妹たちが一九一三年以前から使っていた台所用品をいまでも使っていることに気づいた。一階にも二階にも同じ古い煉瓦の暖炉があった。ベッドやテーブル、腰かけ、長椅子、箪笥、そして壁に掛けてある絵や装飾品もすべてが昔のままだった。変わっているところといえば、ちょうど蕾はじめたばかりの花を活けた花瓶が窓枠の下に飾られ、私たちのために新調したカーテンが吊され、ベッドカバーやテーブルクロスが新しいものと取り替えられていたものくらいだった。それらは、精巧なデザインと色彩をほどこしたレースや刺繍でつくられていて、妹たちが編んだものだった。……あとで知ったことだが、妹たちはユーゴスラヴィア農民手工芸協会に属していて、つくったものをエジプトに輸出し、メイド・イン・エジプト、あるいはメイド・イン・ベルギーとして、アメリカの輸入業者や外国からの旅行者に売られていた。 「きっと来年には、アメリカのどっかの貴婦人が、アレクサンドリアかカイロあたりで買ってくれるわよ!」妹の一人はそう言って、みんなを笑わせた。それはスフィンクスとピラミッドをかたどったレースだった。

  大部屋には大きな食卓が用意され、料理やワインが並べられ、中央には忘れな草を活けた鉢が飾ってあった。私たちは腰を下ろし、ワインをほんのちょっぴりごちそうになりながら、食べはじめた。でも、いよいよ飲むころになると、母が心配したので、たくさんは飲めなかった。みんななんと言っていいのか感激のあまり思いつけず、それでも嬉しさと幸せに胸いっぱいになっていた。

  食事の合間、満面に笑みを浮かべながらも終始悲しい顔を隠しきれない妹のパウラは、ステーラのジャケットと私のコートの襟に、谷間でつんできた数本の百合の花をそっとピンでとめてくれた。
  「みんな素敵だわ、」と、ステーラが言った。
  それを私はパウラに訳してやった。
「あっ、そうだわ、ことしは大ぜいだから、大鎌を使って牧草やクローバーを刈れるわね」と、パウラは言って、「お兄さん、よかったね、それから奥様も」と、にっこり微笑んだ。

ステーラは食卓での会話がさっぱりわからないので、場違いな感じを持っていたのだろう。私は、みんなの話を逐一訳して聞かせた。みんな、ステーラのほうを見て喜ばせようとしていた。だが、そうしたことは最初の間だけで、しばらくすると、身振り手振りの言葉をめいめい勝手に編み出して、私の助けなしに話すようになった。
  元々、気さくな性質(たち)のステーラは、家族のお気に入りになるまでには、そんなに時間は要らなかった。
  妹のポルダカがこんなことを言った。
  「お兄さんは私たちのこと、ちっともわかっていないのよ。有名の作家だからつんとすまして、お高くとまった貴婦人を連れてくるんじゃないかって、私たちみんな、ほんとにびくびくしていたってことが。でも、安心しちゃった。心配なんかしてそんしたわ。義姉さんと話せたらいいのにな」

ステーラもこんなことを言った。
  「ほんとに信じられないわ。ここにあなたの家族がいるってことが。武勇伝だって書ける家族じゃないの。……一四のあなたをアメリカに送り出したのだから、みんな冷たい人たちじゃないかって思っていたのに、でもいま、やっとわかったわ。あなたのことを心から愛しているのが。アメリカへ行くのだって、ちょっと変わったことだったかもしれないけれど、ごく自然な運命として受け入れたのよね。長いあいだ音信不通になっていても、あなたを思う気持ちは変わらずあったんだわ。素晴らしいことね。……あの人たちに私が好きだって言ってちょうだい」

私はその通りに訳して伝えた。
  「ハバラ・リエパ(ありがとう)」
母とポルダカが答えた。ほかの者は何も言わず、にやにや笑ってうつむいていた。いちばん気の強いポルダカがひきとった。
「わたしたちみんなも義姉さんのこと好きだっていってよ。みんな抱きしめたいって思ってるって。でも、そんなことな馴れていないんだよなあー」

  ステーラに訳しながら、その調子のおかしさに、私たちはいっせいに笑いこけてしまった。


  *()の中はルビです。

2008年7月9日水曜日

動乱のバルカンを旅する-全米ベストセラー作品 (電子書籍)

動乱のバルカンを旅する-全米ベストセラー作品 (電子書籍)




『わが祖国ユーゴスラヴィアの旅』
ルイス・アダミック著/田原正三訳
The Native's Return: An American Immigrant Visits Yugoslavia and Discovers His Old Country (New York & London :Harper,1934; London: Gollancz, 1934 370pgs) The Book-of-the Month Club selection for February 1934、2月の月間図書選書に収められベストセラーとなったが、祖国では発禁となった。アダミック作品ではよくあること。


●改訂新版 翻訳を一部掲載


 1932 年、「私」は妻とともに 19 年ぶりに故郷スロヴェニアに帰った。アドリア海のブルー、やさしい春の風、旧き良きフォークロアの数々、なつかしい母の姿……。しかしその後、ダルマチア、ヘルツェゴヴィナ、ボスニア、モンテネグロ、南セルビア、クロアチアと転々と旅して回るうち、私は次第に、この国が恐ろしい力によって支配され、人々を虐げていることに気づいた。そしてイタリアにムッソリーニが、ドイツにヒトラーが登場しつつあった!

1930 年代のバルカン半島の緊迫した政治・経済・文化状況を、その歴史や人々の生活――衣食住・民話・叙事詩・闘いなど――を通してあますところなく描き、50 年後の今日、ヨーロッパとバルカン諸国で起こっている「歴史的事件」の発生を鋭く予告した、すぐれたルポルタ―ジュ文学の傑作。月間図書選書。1930 年代大恐慌下の全米ベストセラー作品。原題『The Native's Return ,1934』の翻訳書です。現在もくすぶり続けるバルカン問題が本書を読めば理解できるはず。

書籍版(PMC社、1990 年)は、日本図書館協会選定図書、全国学校図書館選定図書に選ばれました。また同年季刊誌「翻訳の世界」において国内で出版された約500冊中ノンフィクション部門で12位にランクインしました。

・作品解説 ヘンリー・A・クリスチャン(ラトガーズ大学)

・訳者あとがき 

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 《電子ブックで読めます  (download ebook)

















『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』
ルイス・アダミック著 / 田原正三訳

 目 次
 第一部 帰りなん、カルニオーラへ
  1 一九年後
  2 従兄弟トネーの結婚
  3 死がヤネス伯父を待っている
  4 スロヴェニア人の悲劇
  5 マトヤッチ王伝説の生まれるところ
 第二部 アドリア海沿岸から山岳地帯へ
  6 南部国境にて
  7 ある淋しい女たちの村
  8 昼下がりのモンテネグロ
  9 ダルマチア ― 農民のリヴィエラ
 10 宙ぶらりんの街 ― サライェヴォ
 11 時計の針が止まった世界
 12 コソヴォの叙事詩
 第三部 ベオグラードとクロアチア
 13 急成長の首都
 14 クロアチアの苦悩
 15 独裁国王に会見する
16 アメリカへ

 訳者あとがき 

一九八三年、ルイス・アダミックの祖国、スロヴェニアを旅したときのことである。イタリアのトリエステからリュブリャーナに汽車で着いた私は、その足で市内に在住するフランツ・アダミッチ博士を訪ねた。博士は、本書の著者ルイス・アダミックの実弟である。

玄関のドアを叩くと、博士の夫人が姿を見せ、魅力溢れる笑顔とともに、東京、ニューヨーク、そしてスロヴェニアへと旅を続けてきた私を家の中に招じ入れようとした。私は旅で汚れた大きな旅行鞄を担いで中に入ろうとすると、夫人は「鞄は駄目です」と、きっぱり言った。それは外に置いておくように、と。

私はびっくりしてしまった。ショックだった。その後、夫人や博士は、私をあたたかくもてなし、リュブリャーナの街や、アダミックの生まれ故郷を案内してくれたけれど、あの〝鞄拒絶〟だけは、その後も妙に心に残った。

東京へ帰った私はこう考えた。あのとき、夫人はこう言いたかったのではないか。「あなたの訪問はうれしいことだけど、お泊めするわけではありませんのよ」と。鞄を家の中に入れれば、その客を宿泊させることになる、という習慣がユーゴスラヴィアにあるのかどうかは知らないが、いまの私は、そのように理解し納得している。

それにしても、夫人の小さな拒絶は、異邦人としての私の存在を強く意識させた。そして、こうも思った。もしかしたら、ルイス・アダミックの一九年ぶりの帰郷のときも、同じようなことがあったのではないか、と。

「アメリカ生まれのアメリカ人よりも、もっとアメリカ人らしいアメリカ人」になった彼にとって、一〇カ月あまりのユーゴスラヴィア滞在は、いたるところで「鞄は駄目です」と無言の拒絶にあい続けた〝異邦人〟としての自分を意識させられる旅ではなかったろうか。そのことが、この本を単なる〝帰郷物語〟に終わらせずに、緊張と何とない不安に包まれた素晴らしいルポルタージュ作品にした隠された要素ではないだろうか。――そのような〝読み〟を可能にしてくれた、私のスロヴェニア旅行は成功だと思った。


この作品をもっと深く理解するためには、ユーゴスラヴィアという国の歴史を少し噛っておいたほうがいいだろう。
この国ほど、過去数世紀にわたって他民族の侵略を受け、分断と統合の複雑で皮肉な歩みを強いられたところはない。
かつてのオスマン・トルコ、ヴェネツィア、オーストリア・ハンガリー帝国などによる民族分断統治の歴史はともかく、今世紀に入ってからも第一次世界大戦後、セルビア、南セルビア(マケドニア)、モンテネグロ、ボスニア(ヘルツェゴヴィナ)、ダルマチア、クロアチア、スロヴェニアの各バルカン・スラブ民族国家は統合され、のちにユーゴスラヴィア(南スラブ)が誕生することになるが、皮肉にも、その政体はセルビアが主導権を握るアレクサンダル国王の軍事独裁政権だった。その暴政については、この本の各所で紹介されている。
そして、この独裁政権はマルセイユでの国王暗殺によって終焉を告げた。一九四一年四月、ドイツ軍がユーゴスラヴィアに侵攻すると、再び、この国は枢軸国による分割統治がはじまった。セルビアはドイツ、ツルナゴーラはイタリア、スロヴェニアは両国の折半、クロアチアにはファシスト傀儡政権が出現し、ハンガリー、ブルガリア、アルバニアといった近隣諸国も国境地帯を占領した。
こうした動きに対抗して、チトーに代表されるパルチザンの抵抗運動が強まり、一九四四年九月、ついにこの国は解放された。大戦後、このチトーを首班とするユーゴスラヴィア連邦人民共和国が誕生、初めての本格的な連邦制国家が樹立された。しかし、スターリンの干渉には激しいものがあった。そこで、チトーはモスクワ・コミンフォルムとも袂を分かち(除名されたことになっている)、以後、独自の社会主義の道を歩みはじめた。ちなみに、チトーはクロアチア出身だった。
一九八〇年、建国の父チトーが死去すると、焦点を失ったように、この国には再び民族自決の気運が高まった。それが一気に火を吹いたのが、最近のゴルバチョフのペレストロイカ旋風である。
現在、ユーゴスラヴィアは、コソヴォ自治州、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、スロヴェニア各共和国内で民族間の紛争、ないしは民族自決の闘いが頻発している。その危機的状況は「いつ革命が起きてもおかしくない」(著名な反体制活動家、ミロバン・ジラスの言)という。

ルイス・アダミックの帰郷は、こうした歴史的流れのなかでも、その命運を決したともいえる時期、一九三二年から三三年にかけてのことだった。独裁、世界恐慌による経済危機、ムッソリーニやヒトラーの台頭と、来たるべき世界戦争の影におびえ沈黙する人びとの姿や、敢然と起ち上がって抵抗運動に身を挺して闘う人びととの姿を、アダミックは独特な文体で記録した。
その底流にある作家の視点は、すべての民族に自由と独立を与える、ゆるやかなスラブ連邦建設への祈りである。旅先の至るところで、作家がそれぞれの民族の持つ特徴――民族衣裳、伝説、風習、叙事詩など――を丹念に収集していくのは、バルカンの人びとの生活文化誌を、広く世界に知らせる目的があったとしても、もう一つの目的、つまり、それぞれの民族固有の、あるいは共通の文化を自律的にとらえ、それらを未来への夢(スラブ連邦)の本質として託そうとした願いがあったからだと思われる。(さらにいえば、アダミックの視線は、多民族国家アメリカの未来像にも注がれていたが、これについてはまた、別の機会に述べたい。) 
いま、東欧の動乱は真っ盛りであるが、それらがいったい何によるものか、その核心を知るうえでも、また、それらの動きが将来どのようになるのか、その予測と展望を得るうえでも、アダミックは格好の書物を私たちに残してくれたといえるのではないだろうか。

この作品は一九三四年二月に出版されると、たちまち五万部を売り尽くし、週間ベストセラーを記録したという。アメリカでどのように評価されたのか、最後に紹介しておこう。
「これは新しい種類の本だ。物語があり、詩があり、鋭い批評があり、ペーソスがあり、ユーモアがあり、そして悲劇がある。そのことにアメリカと彼の故国スロヴェニアが共に関係していたという誇れるべき何かがある。ルイス・アダミックの内には詩人がひそみ、社会哲学者がひそみ、天性のストーリー・テラーがひそんでいる。……恐るべき窮乏と不幸の下で、実にたくましく、実に忍耐強く生きている不屈の人たちの国。それゆえに、読者は、たとえヨーロッパで何が起きようとも、彼らの将来は約束されていると思うはずだ。……ここには大半のアメリカ人がまったく知らない新しいヨーロッパについての考察がある。そして、それはアメリカ人が予想さえしない民族の絆によって結ばれている。……私はこのあたたかくて生き生きした、平易で、しかも洞察力の鋭い、注目すべき文体についても触れなければなるまい。それは、このアメリカ人化したスラブ人が自ら習得した文体であり、また、生粋のアメリカ人が書ける最高の作品に匹敵する文体だと思う。」(ヘンリー・セイデル・キャンビー「月間図書選書ニューズ」)

「本はいかに書かれるべきか――熱狂と情念と、深く精神を刺激する形で。月間図書選書がこれほどよく選んだ本はないだろう。」(「スクリブナーズ・マカジン」)

「この帰郷物語は、誰も無関係ではいられない本である。これまで私たちがめぐり逢ったことのないほど新鮮で痛烈で、やさしさのこもった本である。」(ジョージ・チェンバレン「ニューヨーク・タイムズ」)

「書かなければならなかった本の一冊である。本書に出てくる人たちは、すぐれた小説中の登場人物のように生き生きとしている。叙事詩的な経験は、ほとんど純粋な詩にまで高められている。」(シンクレア・ルイス夫人、ドロシー・トンプソン「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」)

「そこには国土と空地、農民、民族衣裳、古風で趣のある習慣、そしてさまざまな国籍のカラフルな行進が健全に生きている。この本を読むと、文学的な歓びを味わうことができる。」(「ボストン・トランスクリプト」)

「この本は宝庫である。全編残らず魅力的だ。ルイス・アダミック以外の誰も、この本あるいはこれに似た本は書けなかったはずだ。このすぐれた本は、われわれにとって良き将来を約束させる。」(フレッド・T・マーシュ「ニューヨーク・サン」)

「私はこの本を正当に批評できないことを告白する。このなかには、あまりに多くのものがある。素晴らしい本だ。人間に対するあたたかい洞察が含まれているからだ。」 (ウィリアム・ソスキン「ニューヨーク・アメリカン」)

「本書には押さがたい魅力が充満し、限りない魅力を持った個性と、ユーモアと、率直さによる、よどみのない文体が漲っている。」 (「ニューヨーカー」)

「月間図書選書は、これほど深く魂を満たす本をここ数カ月取り上げてこなかった。これは私がこれまでに読んだうちで最も忘れがたい本の一冊である。」(ルイス・ガネット「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」)


《書評》 日高八郎先生(東京大学名誉教授)
「東欧ユーゴースラヴィア出身のルイス・アダミックは、現代米文学、最盛期にルポルタージュ文学界の騎手として、縦横無尽に活躍した。今、初めて流麗な本邦初訳によって、30年代バルカン半島の激動を適確に予言したこの偉大な国際作家の思想と行動を、心ゆくまで熟読できるのは至上の愉悦である。」


『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』 
《解説》  ヘンリーA・クリスチャン(ラトガーズ大学)
田原正三 訳  

「わが祖国ユーゴスラヴィアの人々」(原題The Native’s Return)は、読者をとりわけ喜ばせる幸せな状況描写からはじまっています。アダミックの多くの価値ある本のなかで、最も重要で素晴らしいこの移民の帰郷物語は、まさにこの作家なくしては書けない作品だったように思えます。とはいえ、この作家がそれまで一度も帰郷していなかったという事実や、ユーゴスラヴィアへ帰ることが決まったときでさえ、この本を書く予定がなかったという事実は、たいへん興味ある点です。しかも、ユーゴスラヴィアに帰り、そこで発見してものは、一九三二年という時代の故国の特殊な政治・社会状況であり、それを書くことによって、この本はさらに厚みを持ったのでした。 
ルイス・アダミックは、一九一二年の暮れ、当時、オーストリア・ハンガリー帝国領のカルニオーラ地方(一九一八年以降はユーゴスラヴィア領スロヴェニア)からアメリカに単身、移住しました。一四歳のときでした。彼は最初、ニューヨーク市のスロヴェニア語系新聞社「グラス・ナローダ」(人民の鐘)に雇われ、たまたまアメリカ国内や海外のニュースを翻訳するなどの重要な仕事に従事する幸運に恵まれました。新聞社で三年間働いたあとの一九一五年一二月、彼はアメリカ合衆国陸軍に入隊し、次の七年間をパナマ、ハワイ、アメリカ本土と従軍生活を送りました。一九二三年の除隊後は、二五年から二九年まで、カリフォルニア州サンペドロのロサンゼルス港の水先案内所の職員でした。

彼の創作活動は、すでに一九二一年ごろからはじまっていて、最初はスラブ系作家による珍しい題材を扱った作品の翻訳にあたったりしていましたが、実際にアメリカで注目を引くようになったのは、H・L・メンケン主宰の「アメリカン・マーキュリー」誌に数編の記事や物語を載せるようになってからでした。一九二八年に最初の単行本『ロビンソン・ジェファーズ―ある肖像』を出版すると、翌年にニューヨークに移りました。その後のアダミックは、着実に記事や物語、書評などを発表しながら、本格的な作品『ダイナマイト―アメリカにおける階級の暴力物語』Dynamite:The Story of Class Violence in Americaを一九三一年に出版しました。私生活の面ではこの年、ユダヤ系アメリカ女性で二世のステーラ・サンダースと結婚しています。翌三二年になると、初期のころから発表していた物語や、新しい素材を自伝的ストーリーの骨格に取り入れ合体させた、彼の代表作の一つ『ジャングルの中の笑い』Laughing in the Jungle:The Autobiography of an Immigrant in Americaを出版、同時に、グッゲンハイム財団フェローシップを受けて、ステーラ夫人を伴い、待望のイタリアのトリエステに向けて旅に出たのです。四月下旬のことでした。

アダミックの計画では、スロヴェニアの家族を数日間訪ねてから、イタリアかオーストリアで過ごすつもりでした。そこで、移民を背景に持つ数世代にわたるアメリカ人家族の小説を執筆しようと考えていたのです。しかし、ユーゴスラヴィアに帰り、しばらく滞在しているうちに、個人的な状況に心を奪われるようになったため、ペンの先から生まれた物語は帰郷についての自らの体験譚を中心にしたユーゴスラヴィアものになったのでした。六月になると、彼はその草稿をアメリカのリテラリ・エージェント社に送り、小説のほうはあと回しになる旨を告げています。

彼は当初の執筆計画に軌道修正をしたのは、故国の状況に深い関心を持ったと同時に、その一方では金銭面での苦労に直面していたからです。アダミックに支給されたグッゲンハイム財団奨励金は、ユーゴスラヴィアの貨幣価値からすれば、十分すぎるほどの大金でしたが、アメリカでの本の出版に関する前払い金は予想外の出費をまねき、一年の滞在費に心もとなさを感じるようになったわけです。八月になると、彼はエージェント社に対し、「例の移民ものの出版はあと回しにしたい」と再度手紙を書いていますが、小説への執筆を断念したわけではありません。同じ八月には、ハーパー&ブラザーズ社の編集者宛に、自分としては完璧な小説の「ほとんど半分以上、三万三〇〇〇語ほどを書き終えている」と、手紙を書いていますし、一二月にも、クロアチアの首都ザグレブにある出版社ビノザに、『暗黒の草原』と題する小説の原稿を半分を送り、一カ月後には残りの原稿を届けることを約束していることなどから、彼は小説を折にふれて書き続けていたことがわかります。この『暗黒の草原』は、のちの一九三五年に『孫たち』Grandsons:A Story of American Livesと改題されて出版されました。

一方、帰郷してからの自己体験記の発表は意外に早く進みました。一九三二年一〇月、「ハーパーズ・マガジン」誌に「アメリカからの帰郷」と題して掲載された作品は、たちまち大きな反響を呼び、素晴らしい成功を見たのです。こうなると、引き続きユーゴスラヴィアものを先行せざるを得なくなり、小説のほうはさらにあと回しにされることになりました。翌三三年一月には、同誌に二回目のユーゴスラヴィアもの「カルニオーラの結婚式」を発表すると、三月末のアメリカに帰るまでの時間を同じテーマの執筆に費やしました。

アメリカに戻ってからの数カ月間は、ニューヨークのアパートに引きこもって、いままで発表した作品に手を加えたり、新しく書き下ろしたりしてひたすら本の完成をめざしました。一二月、彼は、「アメリカ移民ユーゴスラヴィアを訪ねる」と題した原稿を出版社ハーパー&ブラザーズに提出しました。編集者はもっと簡潔でかつ説明的なタイトル、「帰郷―アメリカ移民ユーゴスラヴィアに帰り故国を発見する」的なものにしたいと意向を示し、結局、原題のThe Native’s Return:An American Immigrant Visits Yugoslavia And Discovers His Old Countryとして、翌年二月に出版されることになったのでした。出版されると、この本は多くの読者に迎え入れられましたが、とくに月間図書選書に指定されると、二年間にわたり全米のベストセラーとなり、さらには、ユーゴスラヴィア関係の書籍としては記録的な売れ行きを示し、その勢いは一九四〇年代まで続きました。

アメリカ帰国後のアダミックは友人たちに、ユーゴスラヴィアは、ある意味では、ヨーロッパで最も活力ある面白い国だ、大恐慌がどんなに影響を与えようが、アメリカの読者がこの本に関心を持たないはずはない、と自信のほどを語っていました。もちろん、この作品の成功の主な理由は、彼のペンの力に預かるところが大でしたが、同時に、作者自身、それを出版社やグッゲンハイム財団、知り合いの書評家や作家たちに大いに売り込んだ賜物でもあったのです。 作品に対する評価は、彼の予想、期待、努力をはるかに超えていました。いたるところで好評を博し、アダミックは突如として登場した、率直で、刺激的で、独創的な才能に恵まれた作家として評価されるようになったのでした。The Native’s Returnは、一九四二年にレベッカ・ウェストの『黒い仔羊と灰色の鷹』が出るまで、ユーゴスラヴィアについて英語で書かれた、最も情報量の多い、重要な、先見性のある本でした。しかも、アダミックの本はレベッカのそれよりもはるかに予言に満ちたものだったのです。

その予言は、たとえば次のようなところに散見されます。本書の第章の最終行で、アダミックは独裁国王アレクサンダルの行く末について、「今後、一年か二年、いや、五年か一〇年、アレクサンダルは権力の座にいるかもしれない。しかし、それ以上の将来は、彼には約束されていないのだ」と書きました。これを書いたのが一九三三年の春だとすれば、アレクサンダルがマルセイユで暗殺されたのは、わずか一年半の一九三四年の一〇月のことで、この予言はピタリ的中したのです。そのほかにも、来たるべき第二次世界大戦への予兆を告げる記述は随所に見られますし、続くチトー元帥の共産党政府の樹立、一九四八年のモスクワ・コミンフォルムからのユーゴスラヴィアの永久追放などの歴史的事件に見られる、ユーゴスラヴィアとこの国の人びとがとらなければならなかった運命的な選択についても、アダミックはこの本の「あとがき」(本書では省略)のなかで「集散主義国家による共和国のバルカン連邦あるいは東欧連邦を建設し、そして、お互いが何らかの満足いく形で、ソビエト社会主義連邦共和国に帰属すべきだ」と書き、その試みの成功と失敗の現実を見透したのでした。その失敗の原因は、何をおいても「お互いが満足いく形で」できなかったところにあったのです。こうして、アダミックのこの本は、時代、状況、作家の手腕と鋭い洞察、歴史観などあらゆるものが合体して創造された作品として、不朽のものになったのです。

読者のみなさんは、この本との最初の出合いから、一九三四年当時の読者が受けたと同じ感動を受けるはずです。アダミックのこの物語は、旅の始まりとともにはじまります。船に乗って祖国へ向かう作者に導かれて、読者もまた旅を開始し、とたんにその世界のなかに引きずり込まれてしまうのです。懐かしいカルニオーラの風景や農民の生活が描写されていくにしたがって、その〝旧世界〟に驚嘆し興奮する作者やその夫人の姿がありますが、それは読者自身の姿でもあるのです。

アダミックの読者を引き付ける技法は、連続性と手馴れた手際のよいストーリー展開にあります。一九年間もご無沙汰のままになっていたふるさとへの帰郷という心のおののき、アメリカに永く住んでいて、父母や弟や妹たちのことをまったく知らないことへの不安、「アメリカでは無名で、多くのヘボ文士の一人」にすぎないという事実からくる引っ込み思案。それからくる混乱と怖れが、昔と少しも変わらないカルニオーラの自然や、「帰郷歓迎! わが同胞の誉れ、著名なる訪問者」としての盛大なる歓迎や、家族の者たちが示した心からの喜びによって、霧が晴れるように消え、緊張感と安堵感が巧みに織りまぜられて、次なるストーリーへの期待を強めています。

とくに、「アメリカンカ」としてのステーラ夫人の存在はそのことを際立たせるのに大いに役立っています。言葉の障壁にもかかわらず、みんなはステーラにやさしく親しく接し、ステーラもまたそのように振舞います。母親は彼女を「スタイラー」と呼び、アダミックは「母のそういう口調が好きになった」と語る部分には、何ともいえない、ほのぼのとしたものを感じとることができるでしょう。

このほかにも、カルニオーラ語の独特な言いまわし、アメリカへ渡航していったスロヴェニア人移民の永い歴史と彼らのアメリカへの貢献度、シンクレア・ルイスをはじめその他の作家に対する旺盛な知識欲に見られるスロヴェニア人の教養や文化度などについて、非常に多くの補足的な事実のコメントが語られる一方で、アメリカに起こった大恐慌の影響と衝撃、それが田舎の農民たちに与えている経済危機、そして、アレクサンダル国王独裁のベオグラード政権に対して絶えず潜行する不吉な語りが、のちに展開する暗くて重々しいストーリーへの予感を孕ませて、文章にある種の緊張感を与え、読者はますます作者の語りのなかに吸い込まれていくのです。

説明的な部分になると会話が用意されているのも、この旅行記を読者と協力して分かち合おうとした作者の意図でしょう。家族のことについて、ステーラのこんな感想などは、その一つです。「ほんとに信じられないわ。ここにあなたの家族がいるってことが。武勇伝だって書ける家族じゃないの。……一四のあなたをアメリカに送り出したくらいだから、みんな冷たい人たちじゃないかって思っていたのに、でもいま、やっとわかったわ。あなたのことを心から愛しているのが。アメリカへ行くのだって、ちょっと変わったことだったかもしれないけれど、ごく自然な運命として受け入れたのよね。長いあいだ音信不通になっていても、あなたを思う気持は変わらずにあったんだわ。素晴らしいことね。」 このステーラの語りで、作者も家族も、そして読者もほっと救われるのです。

風景、建物、民族衣裳、風俗習慣が、力強く素朴なタッチで淡々と文章のそこここに散りばめてあるのも素敵です。ですから、読者は、一見、突拍子もない「マトヤッチ王の伝説が生まれるところ」の寓話の部分に差しかかっても、不自然さを感じないでいられます。アダミックはここで、ふつうの農民たちの救世主願望を語りながら、自分自身やグッゲンハイム氏やアメリカについて述べ、「素晴らしき『約束の土地』として、ヨーロッパの農民のあいだにいまなお、アメリカ神話が生きていることを知ることができる」と、同時代的な論評をちょっと加えることも忘れていません。

アダミックは、第一部で、自分自身が祖国によってすっかり捕捉されたように、読者にも捉えられることのここち良さを与えます。そのうえで、そこで築いたいくつかの同心円の輪の核を縦横無尽に用いながら、ユーゴスラヴィア縦断の旅へとつながる第二部以降に入っていきます。舞台はスロヴェニアと明らかに違ってはいますが、また同じでもあるという小さなコメントからはじまります。単なる旅行譚、歴史探訪、大勢の人たちとの出会い〈地理的な違いや、事件や、有名無名の個人によって語りに立体感が与えられています〉、政治批判などが、あるときは個人的に、またある場面では叙述的に語られています。文章タッチも、とりとめもない調子、感傷的な調子、激情を抑えた決断たる調子と、さまざまに変化しながら記録していくのです。

良書をよりいっそう良書として味わい深く読むには、説明的な論評でなく、たとえばマトヤッチ王の口承伝説、モンテネグロのニキタ王の伝記、コソヴォの叙事詩、クロアチアの救世主として闘ったステファン・ラディッチの物語、ベオグラードの独裁政権に抵抗して生きる多くの農民、労働者、学生たちの具体的で詳細な記述を通して、それらの人ひどとともに窮状を訴え、憤りを共有し、さらに、アダミックがユーゴスラヴィアやこの国の人びとについて俯瞰して見せたように、一九三〇年代初めのこの国が「地図の上とわれわれの世界の政治における戦略上の重要な地位を独占している偉大な一民族の強力な社会的複合体」であったことを念頭におくこと、そういうことどもに注意を払うべきでしょう。

本書の迫力とその性格上の特徴は、この作品が出版されたあとに起こったさまざまな反応、アダミックが帰郷後、祖国についてあらゆることを書いたり、語ったりした以上に多くの反応が起こるべきして起こった点に端的にあらわれています。それについて関心のある向きは、アダミックの『私のアメリカ』My America 1928-38(一九三八年刊)や、ユーゴスラヴィア系アメリカ人たちが好意を寄せていた英語やユーゴスラヴィアの数カ国語で書かれた学術的な論文、さらには、ある若いコミュニストによって書かれたアダミックによる翻訳書『苦闘』Struggle(一九三四年刊)、あるいは本書をめぐるユーゴスラヴィアでの検閲(禁書になった)の問題、果ては、本書がアダミックを最期までユーゴスラヴィア問題に関心を寄せる作家とならしめたことなどに注目されるといいでしょう。本書の持つ力強さの一つは、この作品の新鮮さと時代を超えた真実を語りきったところにありました。

最も個人的なレベルでは、私はユーゴスラヴィアを講演旅行中に、この解説を日本から依頼されたわけですが、あらためてこの国を見ると、アダミックの語りがいまだに真実を失っていなことに気づかされたのでした。自然、風景、村落、丘の上の教会、それらはいまでもそこに在り、そこに属しているように見えます。古都リュブリャーナの旧市街からは、アダミックの言葉通りの感動を受けます。彼の実弟、フランツ・アダミッチ教授はいまでも男前で矍鑠としています。私のブラト村訪問は四度目でしたが、アダミッチの生家は、当時と比べ二倍の大きさになっていました。

さらに一般的なレベルでは、スロヴェニアやユーゴスラヴィアの他の地方は、「永い苛酷な歴史を背負った、将来の行方定まらない種々雑多な人びと」と語ったアダミックの言葉通りの真実がいまでも生きています。一九八九年、東欧および南東欧には歴史的動乱の秋がはじまりました。世界は「経済危機」の言葉を再びその地に聞くようになりました。そこで私たちはThe Native’s Returnをき、半世紀以上も前のアダミックの言葉に耳を傾けることができます。「サライェヴォの知識人たちの多くは、ユーゴスラヴィアの他の地方の人びとと同様に、巨大な暴力の前に挫折させられ、行方定まらない、どっちつかずの宙ぶらりんの状況に押し込められていた」のを知るのです。また、私たちは、最近採用されたスロヴェニア共和国とそこに住む人びとの悲願の象徴が、いつの日かマトヤッチ王を目覚めさせるためにクリスマスの夜に一時間だけ咲き誇るという、あの菩提樹の青葉になった、という事実にも驚かされます。

本書はこうして、民族・経済・政治・文化・歴史とさまざまな要素でもって構成されていますが、最終的には、この作品のいたるところに散りばめられ、あらゆる読者の心に重要な意味を持って訴えてくる要素、国家とか場所とかいう枠をとり払って地球人に共通する普遍的な核心があります。それはほかでもありません、The Native’s Return(帰郷)の持つ意味です。人はいろんな理由で、いずれは生まれ育った家を離れます。新天地にはまた別な生活があり別な人生が待っています。それでも人はいつの日か、長い年月を経て、少なくとも一度は生まれ故郷に帰り、あるいは一九九三年からであろうと、旧い「台所用具」に気づき、「ここで……ぼくはノートや鉛筆を……ロールパンやりんごを買ったものだった。……ここには母がいつも買物にやってきていた」ことを思い出し、同時に、「あらゆるものが私の心に蘇ってきた」と、深い感慨をおぼえるにちがいありません。つまり、このことこそ、私たちがこの本から得られる最大の恩恵なのです。

ルイス・アダミックのThe Native’s Returnは、一九三四年にニューヨークのハーパー・ブラザーズ社とロンドンのビクター・ゴランツ社から出版されました。海外版としては、ストックホルムでスウェーデン語の翻訳が、ユーゴスラヴィアでは一九六二年に、ミラ・ミヘリッチ訳によるスロヴェニア語版が出されています。そして今回、初版から五六年目にして日本語版が出版されることになったのは、ルイス・アダミックを愛してやまない私にとって、誠に感慨深いものがあります。

一九八九年晩秋

ユーゴスラヴィア・ザグレブ市、カナダ・トロント市、スロヴェニア・
リュブリャーナ市、アメリカ合衆国ニュージャージー州ミルバーン市にて

(ラトガーズ大学教授)

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動乱のバルカンを旅する-全米ベストセラー作品 (電子書籍)
The Native'sReturn by Louis AdamicTranslation by Shouzou Tahara
WriterCopyright © Shouzou Tahara

About the Author: ルイス・アダミック著 田原正三訳